ゆっくりと、ながーい時間をかけていいのだと、優しい声は言った。だから私はゆっくりと、ながーい時間をかけて育っていく。そうしていいと、優しい声が言ったから。
「いらっしゃいませ」
「―――」
にっこり。――まさにそう表現するに相応しい完璧な笑顔を浮かべる受付嬢に、羽音は魔法の言葉を囁いた。すると途端、安っぽい量産型のヒューマノイドはその目に羽音を映さなくなる。
「失礼」
その横を悠々とすり抜けて、エントランスを後にした。機械による警備システムも、魔法による結界も、何もかもをすり抜けて、向かうは地下研究室。表向きには存在しない、十三番目の部屋。
「――――」
最後の電子錠を焼き切った羽音の前に現れたのは、それまでの迷路のような廊下とは違う、広くがらんとした部屋だった。こじ開けた扉以外に出入り口はなく、そこが正真正銘行き止まり。――つまり、羽音の探していたもののある部屋だ。
そして羽音は、既に見つけていた。部屋の中央に立てられた円柱のガラスケース。淡い水色の液体で満たされた、その中に。
「おまたせ」
浮かべられたのは小さな小さな、真白い卵。その卵に向かって、羽音は誰と話す時とも違う優しい声で語りかける。
「迎えに来たよ、お姫様」
卵は震えた。小さく小さく、まるで羽音の言葉に答えるかのように。
「さぁ、行こうか」
羽音は囁く。この世で最も魔術に適した言語によって紡ぎだされる魔法は、羽音と卵をそっと包み込み研究室から連れ去った。
残されたのは空っぽのガラスケースと、使い物にならなくなった沢山の鍵。けれど誰もそのことに気付かない。羽音によってかけられた魔法は、もう暫く、沢山の人を騙し続けた。
「もしもの話をしようか」
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「亜紗人にも困ったものだね」
言葉とは裏腹に、流風の声は軽い。逆に、カウンターから離れたテーブル席に座る雪奈[ユキナ]の表情は重かった。ただし、その原因はそれほど深刻なものではない。
「声はかけてきましたよ」
地下から戻ってきた雪夜が、流風と有栖に愛想良く告げた。有栖はありがとうと笑みを浮かべる。同時に二人分の軽食をカウンターに上げた。
「どうも」
じとっ、とした雪奈の視線が、トレーを受け取る雪夜の腕に絡みつく。彼女が不機嫌な理由を知っている雪夜は呆れ顔で肩を落とし、知らないけれど見当の付いている流風は苦笑した。雪奈にも困ったものだねと、零された言葉には今度こそ感情が伴っている。
「また喧嘩かい?」
「はい。…俺が割り込んだから起こってるんですよ」
「それは大変だ」
「えぇ、大変です。でも呼び出しに遅れるわけにもいきませんし」
「そうだね」
はぁ、と息をついて、雪夜はカウンターを離れた。テーブルで待ち構える雪奈は、これまでの経験からすぐには機嫌を直してくれそうにない。
(どうしたもんだか…)
心の中で、雪夜はもう一度深く溜息をついた。
と、ん。――繰り返される跳躍の音は、街の喧騒に紛れ誰の耳にも届かない。舞うように軽やかな動きで家々の屋根を飛び越えながら、羽音は常人の目には映らないほどの速さで移動していた。魔法によって守られた体は、重力さえ忘れたかのように風よりも速く駆ける。
「――――」
世界はあっという間に流れていった。全てが過去になる様を感慨なく眺める羽音の目には、どこまでも透明で澄んだ輝きが灯っている。
いっそ冷ややかな瞳はやがて、更なる加速と共に閉ざされた。
「――――」
この世で最も魔術に適した言語によって詠唱される呪文が、新たな魔法を紡ぎだす。
「――、」
勢いつけて一際高く跳躍した羽音は、そのまま姿を陽光に溶かした。
「さぁ諸君、仕事だ」
終わらない白昼夢が始まる。
「あたしはもしかすると、あんたのことが好きだったのかもね」
「歩…」
冷たく、病的に白いリノリウムの床に真赤な血溜りが広がっていく。流れた血が多すぎた。――もう助けられない。
「どうして僕を呼ばなかったの」
絶望が形を成したような光景を前に、羽音はそう呻くのが精一杯だった。
「呼んだら、来てくれた…?」
とくり、とくりと、心臓の鼓動にあわせ広がる血溜りが、靴の先を濡らす。
「たぶん…」
「嘘吐き」
刻一刻と命が失われていく。けれどそれが嘘のように美しく、歩は笑った。嘘吐きと、繰り返される言葉に音はない。――歩?
「あんたはあたしが心を込めて呼べば、絶対に来てくれた」
「だったらなんで、」
「だから呼ばなかったのよ」
「……」
羽音が押し黙ると、歩は少し哀しそうに目尻を下げた。そんな顔をしないで。――言葉は再び音を失くし、羽音は息を呑む。
「あゆみ、」
魔法でなんとか繋ぎとめている命が、失われようとしていた。致命傷を負った体に絶えず魔力を注いでいる羽音には、そのことが本人以上にはっきりと感じられる。
泣かないで。――歩の声なき声は、羽音の心を大きく揺さぶった。
「僕はもしかすると、君のことが好きだったのかもしれない…」
「――、…いじっぱりね」
呆れたような言葉とは裏腹に、歩は我が子へ無償の愛を注ぐ母親のように笑う。辛そうに持ち上げられる手を思わず握った羽音が後悔するほど彼女の体は冷え切っていたが、その表情に哀しみの色はない。ただただ愛おしそうに羽音を見上げ、最期に一度、はっきりと告げた。
「愛してる」
左手の中指に嵌めた指輪が熱を持っている。哀しみが大きすぎて、涙さえ出なかった。
「気付いた時には、いつだって遅いね」
温もりの失われた体へ、流れた血が戻っていく。羽音は行き場のない感情を押し殺そうときつく目を閉じた。再び開いた時、そこに惨状の名残はない。胸に開いていた穴さえ綺麗に塞がっている。まるで、眠っているようだ。
本当に眠っているだけなら、こんなにも胸が苦しくなることはなかったのに。
「おやすみ、歩。よい夢を」
閉じた瞼に口付けて、羽音は歩の体を《次元の狭間》へと隠した。全てから隔絶された《次元の狭間》ならもう二度と、歩が誰かに害されることはない。
羽音は自分一人になった真白い部屋で、唯一鮮やかな色彩を放つ円柱のガラスケースに目を向けた。その中を満たす淡い青色の液体は、羽音の視線を受けて柔らかく輝く。
「インフィ」
〈――はい〉
「僕と来て」
〈はい〉
機械で合成された少女の声は淀みなく、そのことに羽音は幾らか救われ微笑んだ。中の液体が光ることをやめると、ガラスケースは床へ格納され、部屋の照明も半分に絞られる。どこまでも白く、白すぎて現実味の薄い研究室を、羽音は一人後にした。この場所を現実足らしめていた女性はもういない。見る者のいない夢ならば、それはないも同じだった。
「――――」
最後の照明が絞られる直前、囁かれたこの世で最も魔術に適した言葉を、まるで歌っているようだと褒める人も、もういない。
嗚呼――
「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのに」
消えてしまいたい。
薄暗い裏通りに面した扉を、羽音は決められたとおりの回数叩いて押し開けた。扉の向こうは小ぢんまりとした部屋で、明かりは机の上に置かれた蝋燭一つきり。視界はぼんやりとしかない。
「小夜、いる?」
羽音は後ろ手に扉を閉め、部屋の中へと呼びかけた。
「――何の用だ」
どこからとも知れない応えとともに、蝋燭の火が掻き消える。
必然的に、窓のない小部屋は闇に包まれた。
「預かって欲しいものがあるんだけど」
「おいていけばいい」
何を、とも聞かず、部屋の主は告げる。羽音は無言で、机の反対側にあるソファーの上に《次元の狭間》の出口を開いた。
「すぐに取りに来るよ」
「どれほど」
「ジンクスの仕事が終わったら、すぐに」
「まだあんな盗賊どもに手を貸しているのか」
「そうだよ」
「気が知れないな」
「そうだね」
羽音の大切な《預け物》を吐き出して、《次元の狭間》は閉ざされる。
「……」
羽音は踵を返した。
「手放したくないのなら傍に置けばいいものを」
再び蝋燭の灯された室内で、部屋の主は呆れ混じりに呟く。
最後に《預け物》を一瞥した羽音の目が、全てを物語っていた。今はそれが何よりも大切なものなのだと、縋るような目。これを失っては生きていないのだと、隠し切れない本心が溢れている。
「馬鹿が」
優しさの滲む声で、部屋の主は最後に一度吐き捨てた。
淡い水色に染まった無重力空間を、時折、目の覚めるような色彩の光が駆けていく。ゆらゆらと一所[ヒトトコロ]で漂ったまま、まどろみながらも亜紗人[アサト]はその光を眺めていた。赤、青、黄、白や緑。幾つもの光の筋が絶えることなく流れていく。
そのまま世界に溶け込むような錯覚と共に意識を手放すのが、亜紗人はたまらなく好きだった。いっそこのまま目覚めなければいいとさえ思っている。
亜紗人が漂っている場所を一言で言い表すなら、そこは《海》だった。亜紗人はその海底で漂い、光は海面近くを行き交っている。
暫くすると、光の一つが緩やかに下降して暗がりの亜紗人を照らした。眩しさに目を覚ました亜紗人は一度不愉快そうに顔を顰める。
「――――」
開いた口から零れたのは大きな泡。不満を訴えたはずの言葉はそのまま海面へと向かい、弾けて消えた。亜紗人は諦め混じりに表情を崩して、自分の周囲を漂う光を手元に招く。光は手首に埋まった、小指の先ほどの大きさしかない石に吸い込まれ亜紗人に溶ける。光はメッセージだった。早く帰ってきなさいと、仲間が呼んでいる。
(もうそんな時間か…)
亜紗人が手を伸ばすと、幾つかの光がまた彼に溶けた。取り込んだ情報は瞬時に亜紗人の物となる。
《陸》の時刻は正午を回ったばかりで、いわるゆる昼食時だ。空腹は感じないが、呼ばれたからには戻らなければならない。――この居心地のいい海の底から、息苦しい陸へと。
重さのない体を起こして、亜紗人は立ち上がった。頭上を駆けていく光を一度名残惜しそうに見上げると、その姿は泡となって消える。泡はそのまま海面へと向かい、弾けて消えた。
行き交う光たちはほのかに気落ちした様子で、それでも海面を駆けていく。
室内の空調は完璧。なのに入るなり肌寒さを感じたのは、きっと剥き出しのコンクリートのせいだ。四方の壁は打ちっ放しにされたまま放置。部屋の雰囲気に合っていると言えば聞こえはいいが、雪夜[ユキヤ]に言わせてみればただ殺風景なだけだった。せめて明るい色の家具でも置けば寒々しさも幾らか紛れただろうに、がらんとした室内に家具はたった一つしかない。部屋の中央に置かれた灰色のソファー。ただそれだけ。
「亜紗人、有栖が呼んでるぞ」
ソファーが出入り口に背を向けているせいで姿は見えないが、雪夜は亜紗人がそこにいると決め付けて声をかけた。根拠ならある。亜紗人は俗に言う《ヒッキー》なのだ。だからこうして誰かが呼びに来ない限り部屋を出ることはない。
「亜紗人」
一度目の呼びかけに返事はなかったが、二度目には少し間をおいて反応があった
ソファーの背もたれから生えた腕がひらひらと揺れる。雪夜は一度首肯して、すぐさま踵を返した。
「早く来いよ」
ひらりとまた一度、腕が揺れる。
「――――」
開かれた口から零れたのは、泡ではなく乾いた吐息だった。耳が痛くなるような静寂の中、亜紗人は重い体を起こしにかかる。そしてまた溜息。
(めんど…)
現実世界ではあの海の中ほど自由に動けない。そのことが亜紗人の心にいつも枷をかけていた。――早く戻りたい。
別に俺が行かなくてもいいだろうにというぼやきを呑み込んで、亜紗人は首にかけたカードを弾く。カードは《隠者》の描かれた、金属製のタロットカードだった。
「揃ったね」
亜紗人の部屋は喫茶《アルカナ》の地下にある。そこへ通じる扉は《アルカナ》の店内にしかなく、訳あって巧妙に隠されていた。
「じゃあ、仕事の話を始めようか」
面倒なことだと、隠し扉を元の位置に押し込みながら亜紗人は内心息をつく。集められた誰もが流風の言葉に耳を傾ける中、亜紗人だけが気乗りしない顔で壁に寄りかかっていた。
だが誰も、そんな亜紗人の様子を気にも留めない。
「今回のターゲットはこの国最大の企業《カンパニー》。獲物は、カンパニーが極秘裏に開発した最新鋭の人工知能だ」
待ちに待った仕事が、始まる。
「さぁ、パーティを始めよう」
それが合図だった。
昼間は活気に溢れ、人々の笑い声が絶えない街も、時計の針が頂点を仰げば静まり返る。
ひっそりと、ともすれば息つく音さえ響いてしまいそうな夜の街を、男とも女ともつかない影が歩いていた。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた人影だ。
ぽつりぽつりと灯る街灯も、闇の深さに影を照らすことは出来ない。
月は、我関せずと厚い雲の向こうに隠れてしまっていた。
かつーん
それまで些細な衣擦れの音一つ立てず闇を闊歩していた影が、足音高く立ち止まる。昼間なら車の行き交う道の真中で、影は懐から一枚のカードを取り出した。薄い金属で出来たカードは角の一つを細い鎖に繋がれているが、今はそれさえ闇が覆い隠している。
カードを月に翳すような仕草をして、影は微笑んだ。
「――――」
そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。
たたん、と石畳の地面を蹴った影は、街灯の頭を踏みつけ更に高く跳躍した。
「――――」
足首までを覆う、裾の長いコートが翻る。ばたばたと布のはためく音が静寂を乱すと、月は漸く雲の切れ間から顔を覗かせた。
道沿いに並ぶ建物の屋根に着地した影の姿が、月光で浮き彫りになる。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた影は、月と同じ色の髪を揺らしてもう一度カードを翳した。
「――――」
そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。
「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにね」
喫茶《アルカナ》を仕切る女主人、有栖[アリス]は、カウンター席で物憂げに息をつく客に一杯のココアを差し出した。
「砂糖は?」
「病気になるわよ」
客の名は羽音[ハノン]。客といっても、訳あって一つ屋根の下で暮らす有栖の仲間だ。
「貴女のココアは甘くない」
一目見ただけでは男とも女ともつかない中性的な容貌を苦く歪めて、ココアを一口。羽音は何かに耐えるようきつく目を閉じた。
「どうぞ」
アルカナには、砂を吐くほどに甘いホワイトチョコレートが常備されている。本来はデザートに使うためのものだが、一口大に切り分けられたそれを羽音は嬉々として口にした。
常人なら二、三欠片で手が止まる甘さも、羽音にかかれば五分と持たない。すっかり空になった器を引き寄せ、有栖は苦笑した。
「死神なのに早死にしそうね」
「それはただの呼称であって、僕は真性の死神じゃないよ」
「そうでした」
「…嗚呼――」
静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにと、謳うように羽音は繰り返す。
病的な科白ねと、有栖は目を伏せた。
「狂ってはいない。これが正常なのだから」
舞台じみた科白だと、羽音は内心自嘲する。
「嗚呼、消えてしまいたい」
柔らかいドアベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
訪れたのは有栖も既知の客で、注文を聞く前に用意されるブレンドコーヒーに、客――流風[ルカ]――は小さく微笑んだ。
「ありがとう」
二人の間に余計な会話はなく、沈黙を楽しむように流風が目を細めると、手をつけられていないカップとあいまってまるで猫がまどろんでいるようだった。男にしては華奢な体躯も、その印象を強めている。
「羽音はいつもここで寝ているね」
カップから立ち昇る湯気が幾らか治まった頃、唇を湿らせた流風が微笑んだ。視線の先には、カウンターに突っ伏して眠る羽音の姿がある。
肩にかけられたブランケットは、彼の昼寝専用だ。
「寝心地がいいのかしらね」
「カウンターで?」
冗談めかした有栖の言葉に流風も肩を揺らす。背中を丸めた羽音の姿を見る限り到底そうとは思えなかったが、毎日のように目にするとなれば話は別だ。窮屈な体勢など、本人は気にもしていないのだろう。
「昔は貴方だって、よくここで寝てたじゃない」
「それは…」
突然話を振られ、流風は言葉を詰まらせた。
「……あの頃はソファーがあったじゃないか…」
「ならまた置こうかしら。ピアノと一緒に」
「……」
考えた末の反論も微笑みと共に封じられ、沈黙。降参だと諸手を上げると、有栖は声を立てて笑った。
「寝心地がいいのかしら?」
繰り返される問いかけに、目を伏せる。
「最高だよ、ここは。居心地がよすぎて困るくらいだ」
ゆっくりと、一言一言を噛み締めるような告白は静かに優しい空気に溶けた。
「光栄だわ」
(バカップル…)
起きるタイミングを逃したカノンはどうしたものかと内心嘆息する。
喫茶《アルカナ》の午後はこうして穏やかに過ぎていった。
ひっそりと、ともすれば息つく音さえ響いてしまいそうな夜の街を、男とも女ともつかない影が歩いていた。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた人影だ。
ぽつりぽつりと灯る街灯も、闇の深さに影を照らすことは出来ない。
月は、我関せずと厚い雲の向こうに隠れてしまっていた。
かつーん
それまで些細な衣擦れの音一つ立てず闇を闊歩していた影が、足音高く立ち止まる。昼間なら車の行き交う道の真中で、影は懐から一枚のカードを取り出した。薄い金属で出来たカードは角の一つを細い鎖に繋がれているが、今はそれさえ闇が覆い隠している。
カードを月に翳すような仕草をして、影は微笑んだ。
「――――」
そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。
たたん、と石畳の地面を蹴った影は、街灯の頭を踏みつけ更に高く跳躍した。
「――――」
足首までを覆う、裾の長いコートが翻る。ばたばたと布のはためく音が静寂を乱すと、月は漸く雲の切れ間から顔を覗かせた。
道沿いに並ぶ建物の屋根に着地した影の姿が、月光で浮き彫りになる。中肉中背、特にこれといってあげられる特徴のない、ありふれた影は、月と同じ色の髪を揺らしてもう一度カードを翳した。
「――――」
そっと、呼吸するように発せられた言葉が夜風に攫われる。
「静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにね」
喫茶《アルカナ》を仕切る女主人、有栖[アリス]は、カウンター席で物憂げに息をつく客に一杯のココアを差し出した。
「砂糖は?」
「病気になるわよ」
客の名は羽音[ハノン]。客といっても、訳あって一つ屋根の下で暮らす有栖の仲間だ。
「貴女のココアは甘くない」
一目見ただけでは男とも女ともつかない中性的な容貌を苦く歪めて、ココアを一口。羽音は何かに耐えるようきつく目を閉じた。
「どうぞ」
アルカナには、砂を吐くほどに甘いホワイトチョコレートが常備されている。本来はデザートに使うためのものだが、一口大に切り分けられたそれを羽音は嬉々として口にした。
常人なら二、三欠片で手が止まる甘さも、羽音にかかれば五分と持たない。すっかり空になった器を引き寄せ、有栖は苦笑した。
「死神なのに早死にしそうね」
「それはただの呼称であって、僕は真性の死神じゃないよ」
「そうでした」
「…嗚呼――」
静かに、息つくように、消えてしまえたらよかったのにと、謳うように羽音は繰り返す。
病的な科白ねと、有栖は目を伏せた。
「狂ってはいない。これが正常なのだから」
舞台じみた科白だと、羽音は内心自嘲する。
「嗚呼、消えてしまいたい」
柔らかいドアベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
訪れたのは有栖も既知の客で、注文を聞く前に用意されるブレンドコーヒーに、客――流風[ルカ]――は小さく微笑んだ。
「ありがとう」
二人の間に余計な会話はなく、沈黙を楽しむように流風が目を細めると、手をつけられていないカップとあいまってまるで猫がまどろんでいるようだった。男にしては華奢な体躯も、その印象を強めている。
「羽音はいつもここで寝ているね」
カップから立ち昇る湯気が幾らか治まった頃、唇を湿らせた流風が微笑んだ。視線の先には、カウンターに突っ伏して眠る羽音の姿がある。
肩にかけられたブランケットは、彼の昼寝専用だ。
「寝心地がいいのかしらね」
「カウンターで?」
冗談めかした有栖の言葉に流風も肩を揺らす。背中を丸めた羽音の姿を見る限り到底そうとは思えなかったが、毎日のように目にするとなれば話は別だ。窮屈な体勢など、本人は気にもしていないのだろう。
「昔は貴方だって、よくここで寝てたじゃない」
「それは…」
突然話を振られ、流風は言葉を詰まらせた。
「……あの頃はソファーがあったじゃないか…」
「ならまた置こうかしら。ピアノと一緒に」
「……」
考えた末の反論も微笑みと共に封じられ、沈黙。降参だと諸手を上げると、有栖は声を立てて笑った。
「寝心地がいいのかしら?」
繰り返される問いかけに、目を伏せる。
「最高だよ、ここは。居心地がよすぎて困るくらいだ」
ゆっくりと、一言一言を噛み締めるような告白は静かに優しい空気に溶けた。
「光栄だわ」
(バカップル…)
起きるタイミングを逃したカノンはどうしたものかと内心嘆息する。
喫茶《アルカナ》の午後はこうして穏やかに過ぎていった。
ポケットに押し込んだ携帯が何度目かの電子音を奏でる。家々の屋根を飛び越え夜の街を駆ける羽音はいい加減それが鬱陶しくなって、一度足を止めた。電話の相手はわかっている。
「――もしもし?」
〈今どこにいる?〉
「そっとしておいてくれたら七秒で合流できる位置」
〈…急げよ〉
短いやり取りで通話は切れた。遠くに見えるカンパニーの本社ビルを見遣って、羽音は深々と息を吐く。――余計な連絡さえなければ今頃合流できていた。
たたん、とそれまでより強く跳躍した羽音の足音が、澄んだ夜に響く。
「お待たせ」
羽音は電話口で告げた時間よりも二秒早く仲間に合流した。
着地の瞬間乱れた髪を肩口から背へと払う動作は女性的だが、やはり中性的な奴だと、羽音の到着を待ち構えていた雪夜の双子の姉・雪奈は内心呟く。
「遅い」
「集合時刻を聞きそびれたもので」
黒のボディースーツに身を包む雪奈と違って、羽音はいつもと変わらないコート姿だった。ただしその色は、雪奈のボディースーツよりも断然闇に近い漆黒。月と同じ色をした髪と紙のように白い肌がなければ、夜目の聞く雪奈でさえその姿を見失ってしまいそうになる。
「…流風、」
「――いいよ、始めよう」
羽音の不在を理由に双子を引き止めていた流風が、雪夜に急かされゴーサインを出した。羽音に噛み付く理由を失くした雪奈は雪夜を鋭く睨む。
「行くぞ、雪奈」
雪夜はさっと身を翻し駆け出した。雪奈も弾かれたようそれに続く。
「君も行ってくれるかな、羽音。二人だけじゃ心配だ」
「僕が行ったら二人は要らなくなるけど?」
「そんなことはないよ」
「…わかった」
遅れて羽音も駆け出した。
カンパニー本社ビルのエントランスは、時間が時間なだけあって固く閉ざされている。それを遠くから見て取った羽音は、前を走る双子を易々と抜き去り片手を構えた。
「―――」
深く息を吸って、鋭く吐く。呼吸にあわせ振り抜いた腕から、研ぎ澄まされた力が放たれた。魔法と呼べるような代物ではない、純粋な魔力の塊は一直線に飛んで、音もなく爆発する。
次の瞬間、エントランスは見るも無残に吹き飛んでいた。
確かに起きた爆発にたった一つ、音という要素が欠けるだけでこれほど異様な事態になるのかと、双子は俄かに戦慄する。これが一見、人畜無害そうな顔をしている羽音が《死神》と恐れられる所以だ。彼――もしくは、彼女――の魔力は、桁が違いすぎる。
「……」
羽音は無言でガラスとコンクリート片の飛び散ったエントランス跡を駆け抜けた。その足取りに迷いはなく、逆に後を行く双子の方が、格の違いを見せ付けられ足が鈍っている。
「あんなのに背中預けて仕事してたわけ? 私たち」
「正面きって対峙するよりマシだろ。…行こうぜ」
心からの本音を口にして、雪夜は雪奈を促した。
羽音の姿はもう、二人の視界にはない。
「――もしもし?」
〈今どこにいる?〉
「そっとしておいてくれたら七秒で合流できる位置」
〈…急げよ〉
短いやり取りで通話は切れた。遠くに見えるカンパニーの本社ビルを見遣って、羽音は深々と息を吐く。――余計な連絡さえなければ今頃合流できていた。
たたん、とそれまでより強く跳躍した羽音の足音が、澄んだ夜に響く。
「お待たせ」
羽音は電話口で告げた時間よりも二秒早く仲間に合流した。
着地の瞬間乱れた髪を肩口から背へと払う動作は女性的だが、やはり中性的な奴だと、羽音の到着を待ち構えていた雪夜の双子の姉・雪奈は内心呟く。
「遅い」
「集合時刻を聞きそびれたもので」
黒のボディースーツに身を包む雪奈と違って、羽音はいつもと変わらないコート姿だった。ただしその色は、雪奈のボディースーツよりも断然闇に近い漆黒。月と同じ色をした髪と紙のように白い肌がなければ、夜目の聞く雪奈でさえその姿を見失ってしまいそうになる。
「…流風、」
「――いいよ、始めよう」
羽音の不在を理由に双子を引き止めていた流風が、雪夜に急かされゴーサインを出した。羽音に噛み付く理由を失くした雪奈は雪夜を鋭く睨む。
「行くぞ、雪奈」
雪夜はさっと身を翻し駆け出した。雪奈も弾かれたようそれに続く。
「君も行ってくれるかな、羽音。二人だけじゃ心配だ」
「僕が行ったら二人は要らなくなるけど?」
「そんなことはないよ」
「…わかった」
遅れて羽音も駆け出した。
カンパニー本社ビルのエントランスは、時間が時間なだけあって固く閉ざされている。それを遠くから見て取った羽音は、前を走る双子を易々と抜き去り片手を構えた。
「―――」
深く息を吸って、鋭く吐く。呼吸にあわせ振り抜いた腕から、研ぎ澄まされた力が放たれた。魔法と呼べるような代物ではない、純粋な魔力の塊は一直線に飛んで、音もなく爆発する。
次の瞬間、エントランスは見るも無残に吹き飛んでいた。
確かに起きた爆発にたった一つ、音という要素が欠けるだけでこれほど異様な事態になるのかと、双子は俄かに戦慄する。これが一見、人畜無害そうな顔をしている羽音が《死神》と恐れられる所以だ。彼――もしくは、彼女――の魔力は、桁が違いすぎる。
「……」
羽音は無言でガラスとコンクリート片の飛び散ったエントランス跡を駆け抜けた。その足取りに迷いはなく、逆に後を行く双子の方が、格の違いを見せ付けられ足が鈍っている。
「あんなのに背中預けて仕事してたわけ? 私たち」
「正面きって対峙するよりマシだろ。…行こうぜ」
心からの本音を口にして、雪夜は雪奈を促した。
羽音の姿はもう、二人の視界にはない。
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