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「感心しないな」
「…僕だって、出来るなら使いたくはなかったさ。彼女の魔力で、あんな呪文」
 心底そう思っているようなリドルの表情にサラザールは笑みを含んだ。呪文のもたらす効果を疎み、杖を向けられた相手を哀れむでもなく、ただ己の最愛の者の持つ力がその価値もない下衆に向けられることが耐えられないだなんて、なんという独占欲。皮肉でもなんでもなく本心から思う、彼ほどスリザリンに相応しい者はいない。
「しかも、ルーラの悪夢は解けていない。それをもたらした魔使いを再起不能にし、使い魔を殺しまでしたのに」
 だが彼は、感情的になりすぎた。
「……」
 彼自身が言った通り、術者が力を失った後も発動し続ける魔法は存在する。己もその手の魔法を操るのなら、少なくとも相手の口くらいは残しておくべきだ。手間をかけるのが嫌なら服従の呪文一つで事足りる。悪夢を解かせた上で、あの呪文をかければ何の問題もなかった。
「そんな顔をするな」
 深くゆっくりとした呼吸を繰り返すルーラは、リドルの指輪を介した呼びかけにも応えなかったのだろう。――リドルは今にも泣き出しそうな顔をしている。本人がそのことに気付いていない辺り、彼の中で事態は深刻だ。
「あの部屋を使っていい。クロウは置いていけ。入ったら力は一切使えないからそのつもりでな」
 こんなことに使うとは思いもしなかったと、皮肉っぽく笑いながら、サラザールはどこからともなく白い鍵を取り出した。ルーラを取り巻く鎖が姿を変え、本来の姿へと戻ったクロウが、鍵を受け取りリドルへ渡す。
「〝あの部屋〟?」
 ルーラの変化に伴ってリドルの姿も変わり、体格のせいで彼女を抱き上げるのも辛そうにしていたのが嘘のように、彼は足早に部屋を出て行った。
 二人を大人しく見送ったクロウに席を勧め、サラザールは手元の文献に目を落とす。
「レイチェルが暇つぶしに作った部屋だ。内側の魔力を完全に無効化する」
「それでは…」
「あぁ、」
 頭の隅では二人の動きを追っていた。
「リドルにはそうとう報[こた]えるだろうな」
 もうすぐレイチェルも戻ってくる。
「だが気にはならんさ。それでルーラが目覚めるのなら」
「……」
 それまでにルーラが目覚めなければ、戻ったレイチェルが何をする分かったものではない。
「本当に、真っ直ぐすぎて涙が出るよ」
 それだけは避けたかった。
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「――やっと見つけたよ」
 口にする親しげな言葉とは裏腹に、心の中では絶対的な死をもたらす禁忌の呪文を紡ぎ、リドルは杖を振った。周囲は既に彼のテリトリーと化している。何をしようと咎められることはないし、彼自身やめるつもりもなかった。
 少なくとも、指輪の痛みが引くまでは。
「随分好き勝手やってくれたじゃないか」

 ――リドル

「お礼に呪文を一つプレゼントしてあげよう。僕だけが使える、特別な呪文だ」
 頭の中でルーラの悲痛な叫びが止まない。指輪は未だ主を助けられないでいる使い魔を責めるように指を締め付ける。当然の報いだ。
「彼女が死に僕が消えようと、この呪文が力を失うことはない」
 彼女から目を離した僕が悪い。だからこれは完全な八つ当たりだ。知れば彼女だっていい顔をしないだろう。
 ならば、
「――デュエスト・モール」
 知られなければいい。


「永遠の死を味わい続けろ」
 突然の眩暈。
「っ…」
 傾いた体を支えようと壁に伸ばした手は空を掻き、膝が石床に落ちた。痛みが体を駆け上がり、頭の奥へと喰らいつく。
 痛みをやり過ごそうときつく閉じていた目を再び開いた時、そこはもう見慣れたホグワーツの廊下ではなかった。
「――ッ!」
 声にならなかった悲鳴が頭を揺らす。ガンガンと、頭を鈍器で殴りつけられているような痛みが正常な思考を殺した。
 薄暗い室内、窓から見える半円の月、月光の中横たわる、――私。
「どう、して……」
 急かすように早まる心臓の鼓動が耳の奥で叫ぶ。あれは私、ルーラが捨てた、本当の……

「 シ ニ タ イ 」

「いや…」
「死にたいの」
「違う…」
「私は死にたいのよ」
「そんなことないっ」
 胸が張り裂けそうだった。目の前にある光景を追い出そうと目を閉じれば、瞼の裏に抉られた手首が浮かぶ。自分自身の肉を抉る感触、痛みを、私は今でも憶えてる。忘れられるわけがない。
「り…どる……リドル」
 縋るように抱きしめた指輪は確かな温もりをくれるのに、同時に触れた私の手は氷のように冷たかった。これでは、まるで……まるで?
「違う、違う違う違うっ、私は死んでない! 死ななかったの! 私は、助けられたのよ……」
 不意に頭をよぎった思考を振り払うよう頭[カブリ]を振っても、私を取り巻く過去は消えない。唯一の拠り所である指輪の温もりさえ遠のいていくような気がして、私は、ただひたすらにその名を口にした。まるで他に言葉を知らない幼子のように。私が唯一手に入れた、私だけの絶対の名を。
「リドル…」
 けれど彼が現れることはなかった。

 掬い上げた砂は重力に従ってさらさらと手の平から零れ落ちる。これは私の希望。どんなに手を尽くしても、結局残されるのはほんの一握りの砂。これが私に守ることの出来る全て。
「泣いてるの?」
「…さぁ?」
 己の無力さを知っている。だからいつだって守ることに必死だ。
「否定しないんだ」
 大切なものを選ばなければならない。
「俯いてないで顔を上げなよ」
 守らなければならないものとそうでないものとの区別を、はっきりとさせなければ、結局何も守れはしない。
「リナ」
「…少しの感傷くらい許してよ」
「許さないよ」
「酷い」
「君は僕のことだけを考えていればいいんだ」
 私の中で絶対的な優先権を持ち続ける男は傲慢にも告げた。不思議と悪い気はしない。よくよく考えてみれば、今までだってそうだった。
「私にそんなこと言うの、貴方くらいよ? 恭弥」
「他にいたら、僕はそいつを生かしちゃおかない」
「…そうね」
 私は恭弥の傍にいて、恭弥の傍で笑って、泣いて、沢山のことを知る、これからも知り続ける。
「わかったら顔を上げなよ。君がそんなんじゃ、こっちまで調子が狂う」
「嘘ばっかり」
 守るのはこの身と、後はたった一つだけでいい。
「…行くよ、またつまらない仕事だ」
 そうすれば私は、まだ、私でいられる。
「うん」
 自分がちっぽけな人間[ヒト]であることを忘れないでいられる。


 この国で一番大きな自然公園「アベリア」には、とても不思議なアパートメントがありました。
 「アルヴェアーレ」――蜂の巣――と呼ばれるそのアパートメントは、名前の通り蜂の巣のような造りをしています。六角形の小さな家が、身を寄せ合い円を描いたような造りです。中央には、家四つ分開[ヒラ]けた中庭もあります。
 アルヴェアーレは、誰が見ても素晴らしいアパートメントでした。
 アベリアを利用する人々は一様に、アルヴェアーレの住人に憧れを抱き、羨望の眼差しを向けます。自分にとっては雲の上の世界だと諦めながらも、心のどこかで夢見ることをやめられないのです。アベリアの豊かな自然と、それらに囲まれた日常を。
 そんな、誰もが羨むアルヴェアーレに住むことが出来るのは、本当に一握りの人々でした。アルヴェアーレを構成する家々は十一棟しかなく、その内の二棟は、住人なら誰でも利用することの出来る共有スペースですから、人が住むことの出来る棟はたったの九つしかないのです。
 そして、その九つのうち一つ、「フィーシェ」と呼ばれる棟には、一組の「博士」と「助手」が住んでいました。


「だぁーかぁーらぁー、そういうのをタイムパラドックスって言ってね、もし君が過去に遡って母親殺したらおかしいことになるでしょーが。おばさんがいなきゃ君生まれないんだよ? 過去でおばさん殺して君の存在が消えちゃったらどうすんの。……え? 構わないって? そうは言うけど君、この前僕が貸した千円まだ返してないでしょー。うん? …うん……そうだね、君が消えたら僕が君に千円貸した事実も消えちゃうね、よく気付いたね。…いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただそろそろ千円返して欲しいなーなんて……あ、そう? うんわかった。じゃあいいけど…うんそうだね。それでさっきの話の続きなんだけどね……」
 〝時間関係〟――そう、安易に銘打たれたファイルを捲っていた博士の手が止まり、指先がぎっしりと敷き詰められた文字の上を滑りました。
 記されたタイムパラドックスとそれに関係する事象のことをなるべく噛み砕いて説明しながら、博士は早く眠ってしまいたいと壁にかけられた時計に目を向けます。
「だからねぇ…」
 そもそも君には時を遡る術がないだろうと、言ってしまえたらどれほど楽なことでしょう。電話の相手がどこにでもいるような人間であるのは確かでしたが、恐ろしいことに、アルヴェアーレにはそういう人間に平気で時間旅行をさせてしまう非常識な輩が、時折出入りしているのです。そういうことを商売にしている人だって住人の中にはいます。安易に「出来ないだろう」などと言って、出来る術を手に入れようと躍起になられてはたまりません。
 ですが博士自身、このやりとりに厭き厭きしていました。
「……え? 何? 何だって? おーい? おかしいなー混戦してるのかなー聞こえないなー、おかしいなー聞こえないなー…あ、」
 すると、そんな博士の考えを分かっているかのように、電話にノイズが混ざりました。ノイズは徐々に酷くなり、やがて通話は途切れます。
「切れちゃった」
 漸く実のない会話から開放され、博士はにこやかに受話器を置きました。
「終わったんですか?」
 話し声が止んだことに気付いた助手が資料室に顔を出します。
「うん。なんか急に電話の調子が悪くなっちゃってねー。せっかくだから電話線抜いといて」
「…またやったんですか」
「うん?」
「なんでもありません」
 温めたばかりのホットミルクを置いて、助手は律儀に電話のコードを抜きました。
 用済みの電話が片付けられている間にホットミルクを半分ほど飲み干し、机に伏せた博士は欠伸を一つ。
「寝るならベッドで」
「寝ようとしたところに電話があったんだよぉ」
「だからってそこで寝ないで下さい。誰が運ぶと思ってるんですか」
「君」
「博士は最近太ったから重いんですよ」
「……それホント?」
「嘘をつく必要がどこにあるんです」
「それにしたって言いようがあるでしょー」
 時間関係のファイルを手に取った助手に元あった場所を指差してやり、博士は席を立ちました。
「それで、今回はどんな話だったんですか?」
「いつもと同じさ」
 油断すれば落ちてくる瞼と必死に格闘していると、戻ってきた助手が促すように手をとり背中を押します。
「今度は母親を殺したいって言ってたよ」
「この前は確か…」
「妹。冷蔵庫に入れてたプリン食べたから」
「博士と大して変わりませんね」
「僕は、プリン食べられたくらいで君を殺そうとしたり、しないよ」
「そうですか? 拗ねて部屋に引きこもるのもどうかと…――ほら、つきましたよ」
 二階から階段を下りてすぐの所に博士の寝室はありました。
「五歩も歩けばベッドなんですから、途中で行き倒れないで下さいね」
「うん…」
 部屋の隅にベッドが一つ置かれただけの、眠るためにしか使われていない部屋です。
「おやすみぃ」
 時計の針は午後十一時を回りました。博士が普段就寝する時間を、既に一時間ほど過ぎてしまっています。
「おやすみなさい」
 博士がベッドに入るまでをしっかりと見届けて、助手は博士の寝室を後にしました。


「まるで駄々っ子と母親だな」
 博士は結局気付きませんでしたが、リビングからずっと二人のやりとりを窺っていた人物がいます。イヴリースという名の、銀髪の女性です。
「あれで頭だけはいいんですから、世の中どうかしてますよ」
 外を歩けば誰もが振り返るような美貌を持つ彼女は、いつもふらりと現れては姿を消します。
「そう言いつつ、甲斐甲斐しい」
「放っておくと一日中寝てますからね」
 お茶を出し形だけ歓迎しておけば勝手に満足していなくなるので、対応が楽な分助手は彼女の事が不思議でたまりませんでした。
 淹れたての紅茶に形だけ口をつけ――隣人曰く、猫舌なので決して淹れたての紅茶を飲みはしないそうです――、イヴリースは殺風景なリビングを見渡します。相変わらずだなという言葉に、助手は当然でしょうとそっけなく答えました。
「博士は寝ることと研究以外に興味を示さない人ですから」
「知ってる」
 いつも浮かべている微笑を嘘のように消し去ったイヴリースは、もう一度紅茶に口を付け――助手の見間違いでなければ、今度こそ彼女は琥珀色の液体を口に含みました――、ここを訪れた時からずっと傍らにおいていた本をテーブルに放り上げます。
 助手がその本を見つめ首を傾げている間に、気紛れな来訪者はソファーを離れました。
「預かっててくれ。取りには来ないかもしれないがな」
「…何なんです? どうせろくなものじゃ…っ」
 ないんでしょう。――そう続くはずだった言葉は、窓から吹き込んだ突然の強風に押し込められました。
「母親を上手に殺す方法が書かれた本さ」
 とてつもなく笑えない冗談です。
「邪魔だったらどうしてくれても構わないからな」
 きっと彼女は全部分かった上でこんなことを言っているのでしょう。助手はイヴリースがその美しさと同じくらい性格が悪いという事実を思い出し、自分以外誰もいないリビングで残された本を前に一人溜息を吐きました。
「博士の電話相手に送りつけてやれと…?」
 応える声はありません。
「……」
 博士が起きるまで時間は十分にあります。たかが本一冊、処分してしまうのは簡単ですが、それが「イヴリースからの預かり物」というのが面倒なところです。いつかの万年筆のように、手放したものがいつのまにか戻ってきているなんていうのは願い下げです。この件に関しては特に。
「なんて面倒な」
 残された本が本当にイヴリースの言った通りの内容であるのか、助手には分かりませんが、たった一つだけ言えることがあります。
「何で私ばっかりこんな目に…」
 基本的に面倒見のいい助手は、こういうことを放って置けるほど薄っぺらい責任感を持ち合わせてはいないのです。だからこそ博士が飢え死にすることもなく研究を続けることが出来ているのですが、そのせいで降りかかる面倒ごとが増えているということに、助手本人はまだ気付いていません。


「二、三日したら様子を見に行ってみるかな」
 一人楽しげなイヴリースの笑い声が、夜も更けたアベリアに落ちました。

 西の魔女は言いました。
「恋しいのかい人魚姫」
 東の魔女は言いました。
「忘れておしまい人魚姫」
「苦しいだけさ」
「哀しいだけさ」
「どうして想っていられよう」
「どうして憶えていられよう」
「忘れておしまい人魚姫」
「殺しておしまい人魚姫」
「「貴女の肉で、さぁ殺せ」」


「――人魚の肉って、あの?」
 飽きることなく砂糖を紅茶に足し続ける男の――ほんの指先しか露出していない――手元を見つめながら、女は胡乱気に問うた。
 男――ジキルと呼ばれる、その筋では有名なマッドサイエンティスト――は、もう紅茶と呼べるのか分からなくなった液体を丁寧に混ぜ、さらに砂糖を足しながら笑みを深める。
「そう。あの、人魚の肉」
 少し高い位置から落とされた砂糖は狂いなく琥珀色の液体に飛び込むが、とうの昔に飽和しているため溶け消えることはない。ジキルは気にせず砂糖を足し続ける。
 既にカップの三分の一が砂糖で埋まった。
「手に入ったの?」
 女――ラヴィーネ・シュタット――の真紅の瞳がジキルの手元から前髪に覆われた顔へと移る。絶対的捕食者の目が、興味津々と瞬いた。
「んーん。小生[ショウセイ]が手に入れたのは、いわゆる八尾比丘尼[ヤオビクニ]って奴」
「人魚の肉を喰った人間…? 千年も前に絶滅した幻獣の肉をどうやって…」
「干物にしてあったんだって」
「干物?」
 驚愕と呆れを隠そうともせずラヴィーネは表情を歪めた。自分の聞き間違いであってほしいという思い半分、本当ならば何故今まで市場に出なかったのかという疑問半分。ジキルは肩を竦める。
「小生、比丘尼が人魚の肉を手に入れるまでの経緯は知らない。比丘尼になってからは、娼館から一歩も出てないらしいけど」
「娼館? その比丘尼って、娼婦なの?」
「一応男の子だから男娼ね。歳は十二くらいだって言ってたけど、結構大人びてかわいい顔してる。不死であることは小生が保障するよ。不老であるかは知らない。今までいた所が所だけに、酷く従順。――どう?」
「どう、って…私に買えって言うの?」
「この間従順なペットが欲しいって言ってたじゃない」
 カップに半分ほど溜まった砂糖にざくざくとスプーンを突き刺しては引き抜くジキルは、一見無邪気な笑みを浮かべながらついとラヴィーネが背にした屋敷の二階を指差した。
「小生もういらないからタダでいいヨ」
「……」
 振り返らずとも指し示されている部屋に心当たりのあるラヴィーネは、行儀悪くテーブルに頬杖をつき眉根を寄せた。
「比丘尼になって日が浅いから不老であるかはわからない?」
「うん」
「不死であることは保障するのね?」
「うん」
「顔も?」
「うん」
「……娼館にいたって、変な薬漬じゃないでしょうね」
「あと二時間もすれば抜き終わるから、家に帰るまで箱から出しちゃだーめ」
「…箱詰めなの?」
「うん」
 黒く塗りつぶされたジキルの指先がクルクルと意味もなく回る。
 態とらしく深々と息を吐き、ラヴィーネは席を立った。
「ラプラス」
 弾き鳴らす指の音と共に呼ばれた彼女の人工神霊が広げられたティーセットを片付け、手持ち無沙汰になったジキルが椅子に手をつきつまらなそうに足を揺らす。
「また来るわ」
 ラヴィーネは灰被りマッドに背を向けた。
「バイバイ」
 ジキルは振り返りもせずテラスを後にする気まぐれイフリータを見送る。
「きっと気に入るよ」
 きらきらと光を弾く彼女の銀糸が彼の灰目を照らすことはなかった。


 示されていたのは大した手入れもされていない屋敷の二階。ラヴィーネ専用の客間。
「ねぇ、僕のお姫様」
 ティーセットを片付けるため呼び寄せたことを切欠に顕現したラプラス――今は小猫のような姿をしている――を肩に乗せ、ラヴィーネは足早に階段を上る。
「何?」
 彼女が気を使わずとも、彼が落ちる心配はなかった。
「従順なペットなら僕がいるじゃない」
「従順? どこが」
 嘲るような言葉と共にラヴィーネが肩口を払えば、ラプラスはタンッと宙に飛び上がる。そのまま空中で一回転。姿と気配が掻き消えた。
『酷い』
 声無き声を響かせ、まだこの場に留まっていることを主張するラプラスの存在を頭の片隅に追いやり――彼は傍にいて当たり前――、ノックもせず客間の扉を押し開ける。
「…箱詰め、ね」
 ベッドとソファーとテーブル、広々とした窓と使われることのない暖炉で構成されていた室内には、以前とは違う要素が追加されていた。
「箱っていうよりは棺…埋葬直前って感じね」
 暖炉の前に置かれた、硝子の棺。飾り気もなく透明な〝箱〟の中は瑠璃色の液体で満たされ、その中に幼い子供が沈められている。息をする必要がないのか少年はピクリともしないので、ラヴィーネの目にはその姿が丁寧に処置された死体のように映った。硝子の棺に納められ、二度と目覚めることのない人魚姫。棺を開ければ泡となって消える。
「ラプラス、帰りましょ」
『仰せのままに』
「人魚姫も一緒にね」
 手を触れた棺はひんやりとしていて、その冷たさは棺を満たす液体の纏う色そのものだった。
『分かってるよ』
 ラプラスが空間を抉じ開ける気配がして、足元から宙へ投げ出されるような感覚がラヴィーネを包む。次の瞬間、彼女と棺を取り巻く光景が一変した。
「――ありがと」
 見慣れたアルヴェアーレの一室で、ラヴィーネは一言の礼と共に力を揮った。目覚めを促す穏やかで、絶対的な旋律が部屋を満たす。
「おはよう人魚姫」
 冴え冴えとした青の目が、真紅の瞳とかち合った。


 首筋に突き立てられる牙の痛みを今でも憶えている。気を失う直前垣間見たのは、光沢のない灰色の瞳、真っ赤に血濡れた牙。耳に痛い金切り声と共に肩を押され――ドボン――世界が瑠璃色に染まった。


 硝子の棺の中でラヴィーネによって目覚めさせられた少年は、見下ろしてくる存在の纏う鮮やかな色彩に目を瞠り、また、注がれる視線が意識を手放す直前までのものと違うことに、安堵と呼ぶには淡すぎる感情を覚えた。
「――――」
 透明度の高い瑠璃色の向こうで真紅の瞳が何事か囁いても、その言葉が少年に届くことはない。見た目に反して、棺を満たす瑠璃は頑なだった。
「…聞こえないの?」
 棺に乗り上げたラヴィーネは少年の視線が真っ直ぐ自分の瞳へと注がれていることに気を良くしながら、同時に心中で鋭く舌打ちする。棺を覗き込んだ拍子に肩を滑り落ちた銀糸を掻き上げると、視界の端で人の姿をしたラプラスがほくそ笑んでいるのが見えた。
「ラプラス…」
 咎めるような声色で呼ばれ、ラプラスは小さく肩を竦めるとラヴィーネがそうしたように指を弾き鳴らした。パチンと鋭い音がして、彼の姿が掻き消えると同時に硝子の棺も色を失う。
「…出しても大丈夫?」
『もちろん』
 独りでに開いた棺の縁に膝で乗り上げ、ラヴィーネは少年を冷たい水の中から引き上げた。気を利かせラプラスが寄越したタオルは少年を頭から包み、温もりを分け与えるように、幼い体を抱くラヴィーネの腕に力がこもる。
「貴方の名前を聞かせて頂戴」 


 誰かが生きるためには他の誰かを犠牲にするしかないのだと、俺は抗いようの無い現実を前に全てを諦めた。そうしなければならなかった。

 だから俺は、俺を取り巻く世界の唐突な変化についていけない。

「な、まえ…?」
 すぐ目の前には、今まで一度だって見たことの無い鮮やかな色彩があった。血のように赤い瞳、それ自体が光っているみたいにキラキラと眩しい銀髪。作り物みたいに整った容貌が緩く笑う。俺は目を伏せた。
「俺に、名前はありません」
 俺に名前はない。娼館で生まれ娼館で死ぬ人間に名前なんて要らなかった。必要なのは客が指名するのに必要な番号だけ。俺は十八番。客は誰しも俺を好きなように呼んだけど、その中の一つを適当に答える気にはどうしてもなれなかった。
「そうなの?」
 俺を冷たい水の中から引き上げた女の人は、俺が今まで見てきたどんな人とも違った。俺を育てた娼婦とも、俺を買った客とも全然違う。
「じゃあ、私がつけてあげる」
 誰も俺をただ抱きしめたりはしなかった。誰も俺を見て微笑んだりはしなかった。誰も俺に名前をくれるなんて言わなかった。
「ほん、とうに…?」
 目を閉じて、耳を塞いで、口を噤んで、言われるがまま生きていなさいと誰もが言う。そうすれば苦しくない、そうすれば辛くない、そうすれば哀しくなることはないから、生きたまま死んでいていいのだと、誰もが。
「俺に名前をくれるの?」
 俺を硝子の棺に押し込めた。
「だって名前がないと呼べないじゃない」
 でも、貴女は違うと信じてもいいのだろうか。貴女だけは、俺が俺でいることを許してくれるのだと、心から。
「……ディオス」
「ディ、オス…?」
「…そうね、ディオスがいいわ。貴方は今日から私のディオス」
「ディオス、俺の、名前…」
 信じて、目を開けてもいいのだろうか。
「初めましてディオス。私はラヴィーネ、ラヴィーネ・シュタットよ」
 背に回された腕に応え、慣れない優しさに応える術を探し、誰も犠牲にすることの無い生を、俺は望んでもいいのだろうか。
「ラヴィーネ…」
 仕方ないのだと、諦めていた全てを。


 夕日に照らされ真っ赤に染まったテラス。テーブルにべったりと頬をつけ目を閉じていたジキルは、ぺちぺちと頬を叩かれ目覚めた。
「…なぁにぃ?」
 ぼやけた視線の先で、手摺に腰を下ろした子供が可愛らしく小首を傾げる。その表情は逆光で窺えないが、ジキルには〝彼女〟がいつものように微笑んでいるのだと分かっていた。
「どうして比丘尼を手放しちゃったの? 貴方の研究対象としては、ぴったりだと思うけど」
 決して心を覗かせない、鉄壁の微笑。
「小生はいつも退屈。小生はいつも腹ペコ。だから小生は探してる。欲しいのは幾ら切り刻んでもへっちゃらで、幾ら血を吸っても死なないオモチャ」
「ピッタリじゃない。比丘尼は首を落とさなきゃ死なないんでしょう?」
 少女の言葉にジキルはがしがしと頭を掻き毟りながら唸った。思い出すのも嫌だと言わんばかりに、額をテーブルに打ちつけながら足をバタつかせる。
「ジキル?」
「忌々しいあの味! この世のものじゃないネ! 喉が焼け付くような痛みが半日は続いたし舌も痺れてまだ使い物にならない! あんなの、視界に入れるのもゴメンだヨ!」
「…貴方がそこまで言うなんて、よっぽどなのね」
「普通の吸血鬼だったら死ぬね絶対、小生賭けてもいい。…あの比丘尼をどうしようと勝手だけど、ココに連れてきたら絶対入れないからね」
 不機嫌さを隠そうともしないジキル――彼の珍しく露出した双眸――にじっとりと睨みつけられ、少女は了承の意味で軽く肩を竦めた。
「伝えておくわ」
「聞きたいのはそれだけ? なら、小生は引っ込むよ。バイバイ傀儡[クグツ]ちゃん」
「…ツィックラインよ」
「聞こえなーい」
 長く伸びた灰色の髪を鷲掴みにして引っ張りながら頭を振り、聞こえない聞こえないと呪文のように呟きながら、ジキルは宣言通り屋敷の中へと姿を消す。
 残された少女――ツィックライン――は、手摺の上で危なげなく立ち上がると、くるりと体を反転させ迫り来る藍色の夜を見据えた。
「おやすみなさい、独りぼっちの吸血鬼」
 そして掻き消える。


「人を不老不死にする人魚姫、貴方の愛は空回る。愛しても愛しても愛しても、想いが伝わることはない」
 なんて可愛そうなんでしょう、なんて愚かしいんでしょう。報われない愛ならば、忘れておしまい人魚姫。私が手伝ってあげるから。
「淡い初恋なんて忘れておしまい人魚姫」
 深く優しい忘却を、眩く冷たい目覚めの前にあげるから、さぁ――
「輝く希望の下へ出ておいで」
 貴方は知らない、世界のことを。深く暗い水底で、降り注ぐ乱反射を見上げてないで、手を伸ばしなさい人魚姫。誰にも貴方を止められない。
「私の愛しい人魚姫」
 泡になんてなるわけないわ、貴方はずっと、ずっと、愛されていたのだから。
「目を開けて」
 貴方が気付かなかっただけ。


 西の魔女は言いました。
「恋しいのかい人魚姫」
 東の魔女は言いました。
「忘れておしまい人魚姫」
「苦しいだけさ」
「哀しいだけさ」
「どうして想っていられよう」
「どうして憶えていられよう」
「忘れておしまい人魚姫」
「殺しておしまい人魚姫」
「「貴女の肉で、さぁ殺せ」」


「――人魚の肉って、あの?」
 飽きることなく砂糖を紅茶に足し続ける男の――ほんの指先しか露出していない――手元を見つめながら、女は胡乱気に問うた。
 男――ジキルと呼ばれる、その筋では有名なマッドサイエンティスト――は、もう紅茶と呼べるのか分からなくなった液体を一度丁寧に混ぜ、さらに砂糖を足しながら笑みを深める。
「そう。あの、人魚の肉」
 少し高い位置から落とされた砂糖は狂いなく琥珀色の液体に飛び込むが、とうの昔に飽和しているため溶け消えることはない。ジキルは気にせず砂糖を足し続ける。
 既にカップの三分の一が砂糖で埋まった。
「手に入ったの?」
 女――ラヴィーネ・シュタット――の真紅の瞳がジキルの手元から前髪に覆われた顔へと移る。絶対的捕食者の目が、興味津々と瞬いた。
「んーん。小生[ショウセイ]が手に入れたのは、いわゆる八尾比丘尼[ヤオビクニ]って奴」
「人魚の肉を喰った人間…? 千年も前に絶滅した幻獣の肉をどうやって…」
「干物にしてあったんだって」
「干物?」
 驚愕と呆れを隠そうともせずラヴィーネは顔をしかめた。自分の聞き間違いであってほしいという思い半分、本当ならば何故今まで市場に出なかったのかという疑問半分。ジキルは肩を竦める。
「小生、比丘尼が人魚の肉を手に入れるまでの経緯は知らない。比丘尼になってからは、娼館から一歩も出てないらしいけど」
「娼館? その比丘尼って、娼婦なの?」
「一応男の子だから男娼ね。歳は十二くらいだって言ってたけど、結構大人びてかわいい顔してる。不死であることは小生が保障するよ。不老であるかは知らない。今までいた所が所だけに、酷く従順。――どう?」
「どう、って…私に買えって言うの?」
「この間従順なペットが欲しいって言ってたじゃない」
 カップに半分ほど溜まった砂糖にざくざくとスプーンを突き刺しては引き抜くジキルは、一見無邪気な笑みを浮かべながらついとラヴィーネが背にした建物の二階を指差した。
「小生もういらないからタダでいいヨ」
「……」
 振り返らずとも指し示されている部屋に心当たりのあるラヴィーネは、行儀悪くテーブルに頬杖をつき眉根を寄せた。
「比丘尼になって日が浅いから不老であるかはわからない?」
「うん」
「不死であることは保障するのね?」
「うん」
「顔も?」
「うん」
「……娼館にいたって、変な薬漬じゃないでしょうね」
「あと二時間もすれば抜き終わるから家に帰るまで箱から出しちゃだーめ」
「…箱詰めなの?」
「うん」
 黒く塗りつぶされたジキルの指先がクルクルと意味もなく回る。
 態とらしく深々と息を吐き、ラヴィーネは席を立った。
「ラプラス」
 弾き鳴らす指の音と共に呼ばれた彼女の人工神霊が広げられたティーセットを片付け、手持ち無沙汰になったジキルが椅子に手をつきつまらなそうに足を揺らす。
「また来るわ」
 ラヴィーネは灰被りマッドに背を向けた。
「バイバイ」
 ジキルは振り返りもせずテラスを後にする気まぐれイフリータを見送る。
「きっと気に入るよ」
 きらきらと光を弾く彼女の銀糸が彼の灰目を照らすことはなかった。


 示されていたのは大した手入れもされていない屋敷の二階。ラヴィーネ専用の客間。
「ねぇ、僕のお姫様」
 ティーセットを片付けるため呼び寄せたことを切欠に顕現したラプラス――今は小猫のような姿をしている――を肩に乗せ、ラヴィーネは足早に階段を上る。
「何?」
 彼女が気を使わずとも、彼が落ちる心配はなかった。
「従順なペットなら僕がいるじゃない」
「従順? どこが」
 嘲るような言葉と共にラヴィーネが肩口を払えば、ラプラスはタンッと宙に飛び上がる。そのまま空中で一回転。姿と気配が掻き消えた。
『酷い』
 頭の中に声を響かせ、まだこの場に留まっていることを主張するラプラスの存在を頭の片隅に追いやり――彼は傍にいて当たり前――、ノックもせず客間の扉を押し開ける。
「…箱詰め、ね」
 ベッドとソファーとテーブル、広々とした窓と使われることのない暖炉で構成されていた室内には、以前とは違う要素が追加されていた。
「箱っていうよりは棺…埋葬直前って感じね」
 暖炉の前に置かれた、硝子の棺。飾り気もなく透明な〝箱〟の中は瑠璃色の液体で満たされ、その中に幼い子供が沈められている。息をする必要がないのか少年はピクリともしないので、ラヴィーネの目にはその姿が丁寧に処置された死体のように映った。硝子の棺に納められ、二度と目覚めることのない人魚姫。棺を開ければ泡となって消える。
「ラプラス、帰りましょ」
『仰せのままに』
「人魚姫も一緒にね」
 手を触れた棺はひんやりとしていて、その冷たさは棺を満たす液体の纏う色そのものだった。
『分かってるよ』
 ラプラスが空間を抉じ開ける気配がして、足元から宙へ投げ出されるような感覚がラヴィーネを包む。次の瞬間、彼女と棺を取り巻く光景が一変した。
「――ありがと」
 見慣れたアルヴェアーレの一室で、ラヴィーネは一言の礼と共に力を揮った。目覚めを促す穏やかで、絶対的な旋律が部屋を満たす。
「おはよう人魚姫」
 冴え冴えとした青の目が、真紅の瞳とかち合った。


 首筋に突き立てられる牙の痛みを今でも憶えている。気を失う直前垣間見たのは、光沢のない灰色の瞳、真っ赤に血濡れた牙。耳に痛い金切り声と共に肩を押され――ドボン――世界が瑠璃色に染まった。


 硝子の棺の中でラヴィーネによって目覚めさせられた少年は、見下ろしてくる存在の纏う鮮やかな色彩に目を瞠り、また、注がれる視線が意識を手放す直前までのものと違うことに、安堵と呼ぶには淡すぎる感情を覚えた。
「――――」
 透明度の高い瑠璃色の向こうで真紅の瞳が何事か囁いても、その言葉が少年に届くことはない。見た目に反して、棺を満たす瑠璃は頑なだった。
「…聞こえないの?」
 棺に乗り上げたラヴィーネは少年の視線が真っ直ぐ自分の瞳へと注がれていることに気を良くしながら、同時に心中で鋭く舌打ちする。棺を覗き込んだ拍子に肩を滑り落ちた銀糸を掻き上げると、視界の端で人の姿をしたラプラスがほくそ笑んでいるのが見えた。
「ラプラス…」
 咎めるような声色で呼ばれ、ラプラスは小さく肩を竦めるとラヴィーネがそうしたように指を弾き鳴らした。パチンと鋭い音がして、彼の姿が掻き消えると同時に硝子の棺も色を失う。
「…出しても大丈夫?」
『もちろん』
 独りでに開いた棺の縁に膝で乗り上げ、ラヴィーネは少年を冷たい水の中から引き上げた。気を利かせラプラスが寄越したタオルは少年を頭から包み、温もりを分け与えるように、幼い体を抱く腕に力がこもる。
「貴方の名前を聞かせて頂戴」 


 夕日に照らされ真っ赤に染まったテラス。テーブルにべったりと頬をつけ目を閉じていたジキルは、ぺちぺちと頬を叩かれ目覚めた。
「…なぁにぃ?」
 ぼやけた視線の先で、手摺に腰を下ろした子供が可愛らしく小首を傾げる。その表情は逆光で窺えないが、ジキルには〝彼女〟がいつものように微笑んでいるのだと分かっていた。
「どうして比丘尼を手放しちゃったの? 貴方の研究対象としては、ぴったりだと思うけど」
 決して心を覗かせない、鉄壁の微笑。
「小生はいつも退屈。小生はいつも腹ペコ。だから小生は探してる。欲しいのは幾ら切り刻んでもへっちゃらで、幾ら血を吸っても死なないオモチャ」
「ピッタリじゃない。比丘尼は首を落とさなきゃ死なないんでしょう?」
 少女の言葉にジキルはがしがしと頭を掻き毟りながら唸った。思い出すのも嫌だと言わんばかりに、額をテーブルに打ちつけながら足をバタつかせる。
「ジキル?」
「忌々しいあの味! この世のものじゃないネ! 喉が焼け付くような痛みが半日は続いたし舌も痺れてまだ使い物にならない! あんなの、視界に入れるのもゴメンだヨ!」
「…貴方がそこまで言うなんて、よっぽどなのね」
「普通の吸血鬼だったら死ぬね絶対、小生賭けてもいい。…あの比丘尼をどうしようと勝手だけど、ココに連れてきたら絶対入れないからね」
 不機嫌さを隠そうともしないジキル――彼の珍しく露出した双眸――にじっとりと睨みつけられ、少女は了承の意味で軽く肩を竦めた。
「伝えておくわ」
「聞きたいのはそれだけ? なら、小生は引っ込むよ。バイバイ傀儡[クグツ]ちゃん」
「…ツィックラインよ」
「聞こえなーい」
 長く伸びた灰色の髪を鷲掴みにして引っ張りながら頭を振り、聞こえない聞こえないと呪文のように呟きながら、ジキルは宣言通り屋敷の中へと姿を消す。
 残された少女――ツィックライン――は、身軽に手摺の上で立ち上がると、くるりと体を反転させ迫り来る藍色の夜を見据えた。
「おやすみなさい、独りぼっちの吸血鬼」
 そして掻き消える。


「人を不老不死にする人魚姫、貴方の愛は空回る。愛しても愛しても愛しても、想いが伝わることはない」
 なんて可愛そうなんでしょう、なんて愚かなんでしょう。報われない愛ならば、忘れておしまい人魚姫。私が手伝ってあげるから。
「淡い初恋なんて忘れておしまい人魚姫」
 深く優しい忘却を、眩く冷たい目覚めの前にあげるから、さぁ――
「輝く希望の下へ出ておいで」
 貴方は知らない、世界のことを。深く暗い水底で、降り注ぐ乱反射を見上げてないで、手を伸ばしなさい人魚姫。誰にも貴方を止められない。
「私の愛しい人魚姫」
 泡になんてなるわけないわ、貴方はずっと、ずっと、愛されていたのだから。
「目を開けて」
 貴方が気付かなかっただけ。
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