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 隣国への商人が立ち寄るだけあって、大きさこそたかが知れているものの、活気に溢れ、宿の質もよく、素直に好ましい町だと思った。闇の気配も濃いどころか逆に薄いくらいで、だからこそ、近くの森にあれだけの魔物が集まる理由が分からない。

「おい、聞いてんのか?」

 窓の外に広がる起きぬけの町から室内へと目を戻すと、ベッドの枕元には早々と黒猫が丸まり目を閉じていた。完全に眠ってしまったわけではないのだろうが、顔を上げる気配はない。

(気にする必要はないってことか…?)
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「黒の書第四二項、雷[サンダー]」

 月のない夜の深い闇に紛れ、息を殺していた一匹の魔物は、突如として発現した魔力に戦慄した。

「雷[イカズチ]よ、闇を切り裂き下れ」

 バチリと、大気が不穏な音を立てて震える。
 己への脅威を排除するべく物陰を飛び出した魔物の、鋭く伸びきった爪を前に、少女は魔法書の項を辿っていた杖をさっと振り上げ、不敵に笑った。

「白の書第二五項、盾[シールド]」

 間一髪で突き出された魔物の爪は少女に届くことなく、少女を守るように張り巡らされた不可視の壁によって阻まれる。

「終わりだ」

 遥か頭上の暗雲から下った紫電は、轟音とともに魔物を貫いた。断末魔の叫びを上げる間もない、一瞬の死に、魔物は己の死を自覚するまもなく崩れ落ちる。

「貴女にかかれば、初級魔法も立派な凶器ですね」

 足元から流れるように消えていく〝盾〟と入れ代わるように現れた気配に、少女は魔物の屍から己の魔法書へと目を移し、それを消した。

「二桁の魔法は力配分が面倒すぎる」
「そう言うのは貴女くらいのものですよ、暁羽」

 もう一度振り下ろされた杖にあわせ落ちた雷は、そこに魔物がいたという痕跡さえ焼き尽くす。

「お前だってザコの召喚はしないだろうが、――蒼燈」

 少女――暁羽――は役目を終えた杖を魔法書同様、抉じ開けた次元の狭間へと放り込み、空いた手を上着のポケットへと押し込んだ。吐き出された息は僅かに白く、――もうすぐ夜が明ける。

「僕には夜空がいますから」
「…よく言う」

 そろそろ引き上げ時だろうと、暁羽は周囲に魔物の気配がないことを丁寧に探ってから、傍らに立つ少年――蒼燈――と目配せし歩き出した。

「明け方は寒くなってきましたね」
「ああ…」

 蒼燈の言葉に短い返事を返して、立てた襟に顔を埋める。

(もう半月、か)

 フィーアラル王国の王都イザヴェルから遠く離れた辺境の地で、王立魔法学校の生徒である暁羽と蒼燈は魔物退治の任についていた。完全な実力主義の魔法学校ではよくあることで、いくつかの条件をクリアすれば、生徒も魔物退治へと借り出される。
 良くも悪くも、二人は王都を空けていることが多かった。

「頃合いじゃありませんか?」

 暁羽は無言のまま首肯する。返事をするために息を吸うと、そこから凍り付いてしまいそうだったからだ。

「次の町で一通り魔物を倒したら、戻りましょう」
「…わかった」

 白んできた空を眩しそうに見上げていた蒼燈が、一つ頷いて歩調を速める。

「いい加減疲れましたからね」
「同感」

 元々、そう密集していたわけではない木々が完全に途切れ、二人は森を抜けた。

「――フィーネ」

 前に出た蒼燈が振り向きざま杖を振って、二人が魔物を狩っている間、関係のない人間が入れないよう張り巡らされていた人払いの魔法陣が効力を失う。

「ニャーア」

 分かたれていた陣の内側と外側とが混ざり合い、吹き込んだ風とともに、一匹の黒猫が暁羽の肩に飛び乗った。

「あぁ、おまたせ」

 器用に肩の上でバランスを取る黒猫に頬を寄せ暁羽が息を吐くと、擦り寄られた黒猫は気遣わしげな鳴き声を上げる。
 微笑ましい光景ではあったが、蒼燈はそんな一人と一匹には目もくれず、あらかじめ宿を取っておいた町への道を黙々と進んだ。

「なぁ、蒼燈」

 あと少しで町に入るというところで、暁羽が蒼燈を呼び止め立ち止まる。何気なく振り返った蒼燈は思いがけず真剣な表情で今しがた後にしたばかりの森を見据える暁羽に内心首を傾げた。

「今日は何匹倒した?」
「いちいち数えてはいませんよ。少し多かったような気はしますが…」
「そう、多かった。魔物の好むような環境も、獲物も、宝もないのに。俺の勘違いでなけりゃ、あの森にはそこの町なんて半日もあれば無人に出来るくらいの魔物がいた。――これは、異常だ」

 確かに異常だと思った。大抵のことなら「面倒だ」と捨て置いてしまう暁羽がこうして話を振ってきたこともそうだし、自分と暁羽の二人が組んで、たかが魔物退治に夜明けを見たことも、そう。けれど、

「考えすぎじゃありませんか? 単なる偶然かも」

 けれど蒼燈はあえて気付かない振りをして、自分でも白々しいと思えるような言葉を吐いた。

「…だといいがな」

 そんな蒼燈に暁羽も深く追求しようとはせず、溜息ともつかないか細い吐息を吐き出して、森に背を向ける。

「僕としては、面倒ごとは遠慮願いたいものですけどね」

 すれ違いざま零された本音には、ニャアと、黒猫の愉しげな鳴き声だけが返った。

「よせ」

 珍しく余裕のない声だと、思った。恭弥らしくない。恭弥はいつだって、余裕ぶっていてくれた方がいい。私は、そんな恭弥が好きだから。

「ごめんね恭弥。でも、他に方法が見つけられないの」

 ペンダントの指輪に火が灯る。真っ黒な炎。結局私がこの指輪を嵌めることはなかったけれど、きっと、相応しい主が現れるから大丈夫。

「我侭だって分かってるけど、私のこと忘れないでね?」
「忘れる、わけがない」
「ありがとう」

 だんだんと、私という存在を構成するナノマシンが結合を解いていく。体の末端からじわじわと、私が私でなくなっていくのがはっきりとわかった。

「大好きよ恭弥」

 でも、これで、貴方とあの子達が生きられるのなら――

 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
 艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩く音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
 夜の支配者たる彼らの目は、容易く闇を見通す。
「お前か」
 愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
 コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
 髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
 コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」


 優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
『ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ』
 差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
『ユーリに一番似合う色にしたんだ』
 あたしではない誰かの色。
『今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう』
 描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
『二人で歩こうよ、ユーリ』

 泡沫の夢。

 幸福な夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
(二人で歩こう、か…)
 伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
 ユーリじゃないと、言い聞かせるような言葉が一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
 カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。


「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
 なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんだね」
 肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「そう」
「…まだ入れるのか」
 カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
 少しして、ジキルが問う。
 柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
 ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
 本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こした。
 差し出されるカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
 ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。
 残念ながらジキルほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
 ジキルは肩を落とすでもなく分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
 私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。


 部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。だけど…
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
 二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
 朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
 何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。
 緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなり、脆い幻想から目を背けたあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
 ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。

「――混血の匂いがするな」

 暗転。


 はらりと花弁が舞った。
「……」
 ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと舞った。
 普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。

 あれは二度と散らされることのない、約束された花だ。

「ジキル…?」
 まどろんでいた意識が急激に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
 廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血統ではない。
(どこに行った…)
 出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいられなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
 それでも、見失うことはない。
(――いた!)
 私たちもまた〝約束〟されているのだから。


 薄い被膜の破れるような音がして、はっと立ち止まる。
「今…」
 朝の少し冷たい空気に手を伸ばしても明確な答は得られなかったが、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「……」
 なんとも言い難い感情が胸を満たす。歓喜しているとも、恐怖しているともつかないそれは酷く壊れやすいように思えて、一瞬扱いに困った。
 それでもと、頭の中で冷静な自分が行動を促す。
「ごめんね」
 胸に挿した薔薇から花弁を一枚貰い、そっと唇につけ必要な言葉を紡ぐ。この世界で最も魔術に適した言葉は、はっきりと発音されることなく花弁に溶けた。
 熱を持った花弁が独りでに動き出す。風に流され頼りなく揺れながら、進むべき方向を示し、後を追うように更なる呪文を唱えると、風を切るように飛んだ。
 追って駆け出すとすぐに人気のない方へ向かっているのだと気付く。鳴り止まない警鐘が音を増し、花弁が速度を上げた。
 風を切って走る感覚が、今は遠い過去の記憶と交差する。高層ビルに囲まれた今が昔よりも少しだけ息苦しく感じるのは、きっと――
「――こんな昼間から、お食事ィ?」
 意図して上げた〝普段通り〟の言葉は不自然ではなかったろうか。
「…来たな」
 見知らぬ吸血鬼が一人。腕の中にはこれまた見知らぬ少女。
(誘われた…?)
 息苦しさが遠のいたのは刹那。
「現存する最古の始祖鬼、灰被りジキル。領域を荒らせばあるいはと思ったが、こうも簡単にかかるとは」
 男の言葉にまんまと嵌められたのだと理解する。同時に、胸元の薔薇が散った。
「ッ!」
 無数の花弁が一つ一つ凶器となって男へと襲い掛かる。
「なら分かってると思うケド、」
 瞬くよりも短い間に意識のない少女を男の腕から攫い上げ、足場のない空に降り立った。
 よく知る人影が、入れ代わるように下へ。
「小生の街には凶暴なハンターがいるんダ」
 振り下ろされた大鎌は鈍い音と元にアスファルトの地面へと突き刺さる。男はチッと鋭く舌打ちして自分の影に沈んだ。ヒンタテューラへの逃走。
「追わなくていいよ、レンフィーちゃん」
「誰が追うか」
 引き抜いた大鎌を器用にクルクルと回していたレンフィールドが、どこか不機嫌そうにこちらを仰いだ。
「私はあそこが嫌いだ」


『二人で歩こう』
 長く伸びた灰色の髪から覗かせた同じ色の瞳に、溢れんばかりの幸福を湛えて、無邪気な男が笑った。欠片ほどの彩りも無いその男が、あたしの目には何よりも眩しく映る。
『―――』
 あたしではない誰かが彼を呼ぶ声は、音もなく弾けた。
『きっと見つけるから』
 どんなに願ったって、あたしは夢の中の愛されたユーリにはなれない。


「どうしようレンフィーちゃん」
 少し乱暴に扱えば壊れてしまう、酷く脆弱な人間の子供を宝物のように腕に抱いて、ジキルは途方に暮れているようだった。
 らしくないなと、からかい混じりの言葉を呑み込む。
「…お前が決めろ」
 ジキルによって散らされた薔薇は再び花の形を成し、少女の胸に納まっていた。
 それこそが明確な答であるはずなのに、ジキルは気付かない。
(約束された魂、か…)
 アスファルトの地面を蹴って、跳躍。何もない空間を足場にジキルと同じ目線に立って、咄嗟に持ってきてしまっていた薔薇を、眠り姫の胸へと捧げた。
 これが私の答。
「怒ってる…?」
「何について?」
「全部だよ」
 この世界で最も魔術に適した言葉を紡ぎながら、もう一度足元を蹴る。私とジキルの間で、世界が歪んだ。
「さぁな」
 歪みを意のままに操って、世界を渡る。所謂空間転移。
「私には決められない」
 最後に見えたジキルの顔が親においていかれる子供のようで、思わず笑ってしまった。
「お前にしか決められないんだよ」
 親はお前だろうに。


「あら、お早いお帰りね」
 態とらしく驚いたように振舞ってみれば、それを見て不機嫌そうに眉根を寄せる。
「種は蒔いた」
「それで?」
 全く、分かり易いったらない。
「芽が出れば私の勝ちだ」
 長い石畳の廊下を立ち止まることなく歩いていくコールの姿を見送って、ふと、戯れに自分自身の左手首に口付けてみた。
「貴方はあの人に勝てないわ」
 左腕には隙間なく、ワインレッドの薔薇を模ったタトゥーが刻まれている。手首の蕾から伸びた蔓を辿って、甲の咲き誇る大輪の薔薇へと唇を移すと、胸の奥が鈍く疼いた。
「だって、」
 そのタトゥーは忌まわしい呪いであり大切な約束だった。最後に交わした言葉は再会を誓うものではなかったのだから、与えられることのない愛を求め足掻いている方が私には似合いだろう。
「芽は出ないもの」
 彼[カ]の始祖鬼にとってコールなど、自ら手を下す価値もない存在であることは火を見るよりも明らかだ。
「バカねぇ」
 そのことに気付かないのは当の本人一人きり。
「灰被りなんて、一番手強い相手じゃない」
 ――ユーリ、ユーリ、ボクをおいていかないで
「無邪気に見えたって力だけは本物なんだから」
 ――泣かないで、ジキル。大丈夫、貴方は独りじゃない
「舐めてかかると瞬殺よ?」


 ――また会えるから


 柔らかくて、温かくて、優しい声に呼ばれて目を覚ます。穏やかな時間の流れる緑の丘。
「ユーリ、ユーリ、そろそろ戻ろうよ」
 真っ青な空を遮って――私を緑の大地に引き止めて――、貴方は笑う。
「夢を、見たの…哀しい夢」
 差し伸べられた手をとって立ち上がると、心地いい風が頬を撫でた。
「夢?」
 乱れた髪をそっと梳いていた貴方の手が止まる。
 どんな夢を見たのと、言外の問いかけには答えず私は歩き出した。緑の丘を、白い家へと。
「嗚呼でも、それほど、哀しくはなかったかもしれない」
 貴方は不思議そうな顔をしながらついてくる。
「ユーリ?」
「ジキルは何にも心配しなくていいの」
 繋がれた手を引く私に合わせて、貴方はほんの少しだけ急ぎ足。長く伸びた灰色の髪が揺れて、時々、綺麗な金色の目が覗いた。
「大丈夫」
 大丈夫、一目見て思い出すわ。どれほど時間が流れても、私が今の私じゃなくっても、貴方を見るだけで思い出す。そしてまた、恋に落ちるの。何度だって幸せになれるわ。
「私が見つけてあげるから」

 約束よ。


 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
 艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩くカツリカツリという音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
 夜の支配者たる彼らの目は容易く闇を見通す。
「お前か」
 愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
 コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
 髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
 コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」


 優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
『ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ』
 差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
『ユーリに一番似合う色にしたんだ』
 あたしではない誰かの色。
『今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう』
 描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
『二人で歩こうよ、ユーリ』

 泡沫の夢。

 幸福な夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
 虚しさが込み上げる。
(二人で歩こう、か…)
 伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
 ユーリじゃないと言い聞かせるような言葉は一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
 カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。


「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
 なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんダネ」
 肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「ソウ」
「…まだ入れるのか」
 カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
 少しして、ジキルが問う。
 柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
 ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
 本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こす。
 差し出されたカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
 ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。残念ながらお前ほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
 分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
 私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。


 部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
 二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
 朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
 何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。現実逃避の仕方は忘れてしまったはずだ。
 あたしはもう現実から目を背けたりはしない。楽な方へ楽な方へと思考を持っていくことがさらなる苦行を引き寄せるなら、あたしはいつだって最悪の未来を選択する。不幸の底には裏切りも、絶望もないことを知っているから。
 緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなる。脆い幻想から目を背けあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
 ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。

「――混血の匂いがするな」

 暗転。


 はらりと花弁が舞った。
「……」
 ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと舞った。
 普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。

 あれは二度と散らされることのない、約束された花だ。

「ジキル…?」
 まどろんでいた意識が急速に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
 廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血筋ではない。
(どこに行った…)
 出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいれなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
 それでも、見失うことはない。
(――いた!)
 私たちもまた〝約束〟されているのだから。


 薄い被膜の破れるような音がして、はっと立ち止まる。
「今…」
 朝の少し冷たい空気に手を伸ばしても明確な答は得られなかったが、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「……」
 なんとも言い難い感情が胸を満たす。歓喜しているとも、恐怖しているともつかないそれは酷く壊れやすいように思えて、一瞬扱いに困った。
 それでもと、頭の中で冷静な自分が行動を促す。
「ごめんね」
 胸に挿した薔薇から花弁を一枚貰い、そっと唇につけ必要な言葉を紡ぐ。この世界で最も魔術に適した言葉は、はっきりと発音されることなく花弁に溶けた。
 熱を持った花弁が独りでに動き出す。風に流され頼りなく揺れながら、進むべき方向を示し、後を追うように更なる呪文を唱えると、風を切るように飛んだ。
 追って駆け出すと、すぐに人気のない方へ向かっているのだと気付く。鳴り止まない警鐘が音を増し、花弁が速度を上げた。
 風を切って走る感覚が、今は遠い過去の記憶と交差する。高層ビルに囲まれた今が昔よりも少しだけ息苦しく感じるのは、きっと――
「――こんな昼間から、お食事ィ?」
 意図して上げた〝普段通り〟の言葉は不自然ではなかったろうか。
「…来たな」
 見知らぬ吸血鬼が一人。腕の中にはこれまた見知らぬ少女。
(誘われた…?)
 息苦しさが遠のいたのは刹那。
「現存する最古の始祖鬼、灰被りジキル。領域を荒らせばあるいはと思ったが、こうも簡単にかかるとは」
 男の言葉にまんまと嵌められたのだと理解する。同時に、胸元の薔薇が散った。
「ッ!」
 無数の花弁が一つ一つ凶器となって男へと襲い掛かる。
「なら分かってると思うケド、」
 瞬くよりも短い間に意識のない少女を男の腕から攫い上げ、足場のない空に降り立った。
 よく知る人影が、入れ代わるように下へ。
「小生の街には凶暴なハンターがいるんダ」
 振り下ろされた大鎌は鈍い音と元にアスファルトの地面へと突き刺さる。男はチッと鋭く舌打ちして自分の影に沈んだ。ヒンタテューラへの逃走。
「追わなくていいよ、レンフィーちゃん」
「誰が追うか」
 引き抜いた大鎌を器用にクルクルと回していたレンフィールドが、どこか不機嫌そうにこちらを仰いだ。
「私はあそこが嫌いだ」


『二人で歩こう』
 長く伸びた灰色の髪から覗かせた同じ色の瞳に、溢れんばかりの幸福を湛えて、無邪気な男が笑った。欠片ほどの彩りも無いその男が、あたしの目には何よりも眩しく映る。
『―――』
 あたしではない誰かが彼を呼ぶ声は、音もなく弾けた。
『きっと見つけるから』
 どんなに願ったって、あたしは夢の中の愛されたユーリにはなれない。


「どうしようレンフィーちゃん」
 少し乱暴に扱えば壊れてしまう、酷く脆弱な人間の子供を宝物のように腕に抱いて、ジキルは途方に暮れているようだった。
 らしくないなと、からかい混じりの言葉を呑み込む。
「…お前が決めろ」
 ジキルによって散らされた薔薇は再び花の形を成し、少女の胸に納まっていた。
 それこそが明確な答であるはずなのに、ジキルは気付かない。
(約束された魂、か…)
 アスファルトの地面を蹴って、跳躍。何もない空間を足場にジキルと同じ目線に立って、咄嗟に持ってきてしまっていた薔薇を、眠り姫の胸へと捧げた。
 これが私の答。
「怒ってる…?」
「何について?」
「全部だよ」
 この世界で最も魔術に適した言葉を紡ぎながら、もう一度足元を蹴る。私とジキルの間で、世界が歪んだ。
「さぁな」
 歪みを意のままに操って、世界を渡る。所謂空間転移。
「私には決められない」
 最後に見えたジキルの顔が親においていかれる子供のようで、思わず笑ってしまった。
「お前にしか決められないんだよ」
 親はお前だろうに。


「あら、お早いお帰りね」
 態とらしく驚いたように振舞ってみれば、それを見て不機嫌そうに眉根を寄せる。
「種は蒔いた」
「それで?」
 全く、分かり易いったらない。
「芽が出れば私の勝ちだ」
 長い石畳の廊下を立ち止まることなく歩いていくコールの姿を見送って、ふと、戯れに自分自身の左手首に口付けてみた。
「貴方はあの人に勝てないわ」
 左腕には隙間なく、ワインレッドの薔薇を模ったタトゥーが刻まれている。手首の蕾から伸びた蔓を辿って、甲の咲き誇る大輪の薔薇へと唇を移すと、胸の奥が鈍く疼いた。
「だって、」
 そのタトゥーは忌まわしい呪いであり大切な約束だった。最後に交わした言葉は再会を誓うものではなかったのだから、与えられることのない愛を求め足掻いている方が私には似合いだろう。
「芽は出ないもの」
 彼[カ]の始祖鬼にとってコールなど、自ら手を下す価値もない存在であることは、火を見るよりも明らかだ。
「バカねぇ」
 そのことに気付かないのは当の本人一人きり。
「灰被りなんて、一番手強い相手じゃない」
 ――ユーリ、ユーリ、ボクをおいていかないで
「無邪気に見えたって力だけは本物なんだから」
 ――泣かないで、ジキル。大丈夫、貴方は独りじゃない
「舐めてかかると瞬殺よ?」


 ――また会えるから


 柔らかくて、温かくて、優しい声に呼ばれて目を覚ます。穏やかな時間の流れる緑の丘。
「ユーリ、ユーリ、そろそろ戻ろうよ」
 真っ青な空を遮って――私を緑の大地に引き止めて――、貴方は笑う。
「夢を、見たの…哀しい夢」
 差し伸べられた手をとって立ち上がると、心地いい風が頬を撫でた。
「夢?」
 乱れた髪をそっと梳いていた貴方の手が止まる。
 どんな夢を見たのと、言外の問いかけには答えず私は歩き出した。緑の丘を、白い家へと。
「嗚呼でも、それほど、哀しくはなかったかもしれない」
 貴方は不思議そうな顔をしながらついてくる。
「ユーリ?」
「ジキルは何にも心配しなくていいの」
 繋がれた手を引く私に合わせて、貴方はほんの少しだけ急ぎ足。長く伸びた灰色の髪が揺れて、時々、綺麗な金色の目が覗く。
「大丈夫」
 大丈夫、一目見て思い出すわ。どれほど時間が流れても、私が今の私じゃなくっても、貴方を見るだけで思い出す。そしてまた、恋に落ちるの。何度だって幸せになれるわ。
「私が見つけてあげるから」

 約束よ。


 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 ヴァンパイアフィリア。――それがあたしにつけられた病名。自分でも酷い言われようだと思う。好血症なんて、まるであたしが吸血鬼だと言わんばかりじゃないか。
「――立花 夕里が、ここに宣言する」
 立花夕里[タチバナユウリ]。今年で十八の高校三年生。性別・女。身長・一六七センチ。髪・最近切ってないからちょっと伸びたけど黒髪のショート。目・同じく黒。持病・ヴァンパイアフィリア、あるいは吸血病、あるいは好血症と呼ばれる血を好む症状を示す病気。趣味・
「あんたの負け」

 吸血鬼狩り。

 宣言された勝利によって、あたしの目の前で無様に這いつくばっていた吸血鬼が青い炎と共に燃え上がり、やがて灰と化す。その灰を持っていた携帯灰皿に入るだけ詰め込んで、あたしはさっさと埃臭い廃ビルを後にした。
 日はとっくに暮れていて、見慣れない街並みに青白い夜が覆いかぶさっている。
(最近多いな…)
 あたしは生まれながらに吸血鬼を殺す術を知っていて、殺すことの出来る力を持っていた。何故知っているのか、何故持っているのかは自分でもわからない。でも、一つだけ理解していることがある。
 吸血鬼はあたしの命を狙っている。殺らなければ殺やられるという現実を前に持てる力の行使を躊躇うほど、あたしは博愛主義者じゃないし、偽善者でもなかった。
 目には目を、歯には歯を。遠い異国の法典に則って、ではないけど、あたしはそうすることを選んだ。だからまだ生きている。
 なんて行き難い世の中なんだろう。「人間ではないから」なんて薄っぺらい言葉が、命を奪う免罪符になるはずもないのに。

「――混血の臭いがするな」

 ぴちゃりと粘着質な水音がして、あたしは立ち止まる。歩きながら考え込んでいたらしい。おかげで気付くのが遅れた。致命的でらしくないミス。
 鼻につくのは夜の冴え冴えとした空気に薄められて尚存在感を主張する、血の臭い。
 異質な気配がねっとりと肌を撫でた。
「名を聞こう、我が同胞を手にかけし者よ」
 限りなく満月に近い月の下、片手に大きな塊をぶら下げた男が少し先の曲がり角から姿を現す。塊は死んだか気を失ったかした人間で、男は口元を真っ赤に濡らした吸血鬼。
「立花、夕里」
 あたしは心中で鋭く舌打ってポケットの携帯灰皿を握り締めた。
「憶えておこう。お前は優秀なハンターであるようだからな」
「それはどうも…」
 闘って勝てる状況ではないと分かっているのに、目の前の男相手に逃げおおせられるとは到底思えないせいで、両足が地面に縫い付けられたように動かない。
 もしかすると、あたしはここで殺されてしまうのかもしれない。
「だが残念だ。お前がハンターである以上、私はお前を倒さねばならん」
 吸血鬼の男は引きずっていた獲物を何の未練もなく手放して、その言葉とは裏腹に嗤った。
「何か言い残すことがあるなら聞いてやろう。敬意を表して」
 あたしという絶好の獲物を前に、勝利を確信して止まぬ笑み。
(言い残すこと、か…)
 この手を、吸血鬼とはいえ生き物の血に染める度、あたしはその血の持ち主を忘れないよう努めた。努めていた、はずだ。なのに今、あたしは自分が初めて手にかけた吸血鬼の顔を思い出せない。男だったか、女だったかさえあやふや。
「必要ない」
 ならば尚更、対峙する吸血鬼の言葉は意味を成さない戯れだ。
「人にしては気高くもある」
 気休めは必要ない。誰かの記憶に残る必要だってない。あたしが生きることを選択して、この手を真っ赤に染めたあの日から、本当のあたしを知っているのはあたしだけ。
「ならばせめて、苦しめずに逝かせてやろう」
 男は親指の腹で唇を拭って、吸血鬼らしい残忍な笑みを浮かべた。
 青白い、夜。
「それはどうも」
 あたしは目を閉じた。
「さらばだ、若きハンターよ」

「――ざぁんねんでしたぁ」

「なっ…」
 覚悟していた衝撃、あるいは痛みがいつまで経っても訪れないことを訝しんで、あたしは目を開ける。
 相変わらず道の少し先には吸血鬼の男が立っていて、その足元には倒れた人間、頭上には満月になりそこなった月が君臨していた。目を閉じる前と何一つ変わらない光景。
 ならば何故、あたしは生きている?
「邪魔をする気なのか!?」
 吸血鬼の男が、さっきまでの余裕ぶった表情を嘘のように強張らせて叫んだ。
「なに…?」
 その目はもう、あたしを見てはいない。あたしを通り越して、他の何かを凝視していた。
 驚愕と恐慌が、瞳の中で渦を巻く。――恐怖、している?
「このコはあげなーい」
 冷やかな風が頬を撫でた。軽薄そうな男の声が、あたしを通り越して一人の吸血鬼へと絶望を運ぶ。
「灰被り…」
「半世紀振りかなぁ? ヒ・サ・シ・ブ・リ、コール・ノイラ」
 振り返ろうとしたあたしの動きを制限するように、灰被りと呼ばれた男があたしの首に腕を回した。袖口からほんの少ししか露出していない指先が胸の前で組まれて、頭の上に微かな重み。
「どういう、つもりだ」
 おかしいくらいに震えている男――コール・ノイラ――の言葉に、灰被りが小さく喉を鳴らしたのが分かった。クツクツと、頭の上から楽しげな声が降って来る。
「どうって?」
 おそらく吸血鬼であろう灰被りの考えていることが、あたしには分からなかった。
 それは同族であるコールも同じなのだろう。そ知らぬ様子で問い返した灰被りに酷く狼狽して、平静を保とうとするかのようにきつく拳を握るのが見えた。
「貴方が今、その腕に抱いているのはハンターだ。私たちは絶たれる前に絶たねばならない…」
「そんなのシラナイ」
 無知な大人と、冷酷な子供。
「真祖の最期を忘れたのか!?」
 コールが怒気を露に叫んでも、灰被りは相手にしようとしなかった。
「アレはただの死にたがりサ」
 たった一言で切り捨てられ、コールは口を噤む。灰被りは嗤った。
「サァ、分かっただろう? コール・ノイラ。小生はこのコを――少なくともキミの目の届く範囲で――手放す気はないんダ。大切なコだからネ」
 見せ付けるようあたしの頬に手を添えて、いつの間にか腰へと回っていた腕でもって引き寄せる。倒れると思うまもなく抱きとめられたあたしは、なす術を知らない。
「何が貴方をそうさせる……貴方ともあろう人が、何故…」
「小生はただ灰被りサ。キミが小生のことをどう思ってるかなんて知らないヨ」

 一四三一年、この世に生を受けた後のワラキア公ヴラド・ツェペシュは、生まれながらに優秀な魔術師であった。
 一四五六年、邪悪なる儀式によって自らを人ならざる「吸血鬼」へと変貌させたヴラドは夜の支配者となり、魔性の者として世界にその名を広める。
 彼には血を分けた子が二人いたが、「純血」の娘・リトラは彼自身が「血分け」を行い、魔性の者へと変えた愛人・ニキータの子で、正妻であるキルシーとの子・セシルは呪われた混血児「ダンピール」だった。
 一四七六年、セシルは持って生まれた「吸血鬼を殺す力」によって実の父であるヴラドを手にかけた。こうして「真祖」と呼ばれる始まりの吸血鬼は昼と夜の分かたれた世界に別れを告げる。
 けれど彼を祖とする新しい種は、彼の死後も夜の支配者として君臨し続けた。


 深い夜が広がっていた。獣たちでさえ息を潜め気配を殺し、朝を待つ漆黒の夜が。
「――貴方も物好きね、コール」
 艶やかな女の声が冴え冴えとした空気を震わせる。冷たい石床をヒールが叩くカツリカツリという音を辿って、コールは女――カサノバ――へと目を向けた。
 夜の支配者たる彼らの目は容易く闇を見通す。
「お前か」
 愛想の欠片もないコールの言葉に肩を竦めて、カサノバは緩くくねる自慢の髪を指先に絡めながら、ごあいさつねぇと笑った。
「せっかく、貴方が知りたくて知りたくて仕方のない始祖鬼の情報を、持ってきてあげたのに」
 コールは目を瞠る。それはと、半ば無意識の内に零された言葉は掠れていた。
「聞きたい?」
 髪を絡めた指先を口元に寄せながら、カサノバは勿体つけて問う。
 コールは表情を歪めた。
「何が望みだ」


 優しい声がした。ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声。
『ユーリ、ユーリ、薔薇を持って来たよ』
 差し出された一輪の薔薇は、海の色を映したように鮮やかな青をしていて、ユーリの色だよと、声は笑った。
『ユーリに一番似合う色にしたんだ』
 あたしではない誰かの色。
『今度は花束にして持ってくるよ。土に根付いたら広い所に移して、花畑を作ろう』
 描かれる夢のような未来図に眩暈がした。真っ青な薔薇で埋め尽くされる世界。もしこの目で見ることが出来たなら、永遠だって信じられるだろう。
『二人で歩こうよ、ユーリ』

 泡沫の夢。

 幸福な夢から醒める。青の似合うユーリは平凡な女子高生の夕里に戻って、変化に乏しい日常のループに絡め取られた。
 虚しさが込み上げる。
(二人で歩こう、か…)
 伸ばした手はありもしない薔薇を掴もうとして空を掻いた。幾ら手繰っても手繰っても手繰っても、夢の欠片は得られない。泡沫。
「あたしは夕里。立花、夕里」
 ユーリじゃないと言い聞かせるような言葉は一体誰に対してのものなのか、あたし自身わからなかった。取り違えるなという自分への警告なのか、それとも――。
「学校、行かなきゃ」
 カーテンの隙間からのぞく空はどこまでも晴れていた。まるであの夢のように。


「おはよーレンフィーちゃん」
「…おはよう」
 なかなか働き始めない頭を振って二人がけのソファーに沈むと、斜め前に置かれた一人がけのソファーに座るジキルが首を傾げた。
「今日は早いんダネ」
 肘掛に置いたカップに何杯目か分からない砂糖が落とし込まれる。
「目が覚めた」
「ソウ」
「…まだ入れるのか」
 カップの内容物を甘くすることではなく、砂糖を入れるという行為そのものが目的であるかのように、砂糖は足され続けた。
「レンフィーちゃんも飲む? 珈琲」
 少しして、ジキルが問う。
 柔らかく体を包むソファーの心地よさにまどろんでいた私は、ぼんやりとカップの中身が珈琲であることを理解した。力の抜けた腕が腹から落ちて、指先を絨毯が掠める。
「飲めもしないものを淹れるな、勿体無い」
「レンフィーちゃんが飲むかと思って」
 ジキルが〝態々〟飲めもしない珈琲を淹れたのだと理解して、ほんの少しだけ目が覚めた。
「…飲む」
 本当に少しだけ。横になっていたらまた眠ってしまいそうだったから、後ろ髪引かれながらも体を起こす。
 差し出されたカップ。
「小生今日は出かけるんだけど、レンフィーちゃんも来る?」
「いいや」
 ジキルが主に活動する時間帯を知っている私はすぐに同行を拒否して、カップだけは丁寧に受け取る。残念ながらお前ほどの酔狂さは持ち合わせていない。
「なら、レンフィーちゃんはお留守番」
 分かっていたように頷いて、そのまま開けっ放しの扉へ。歩く度に揺れる長い灰色の髪は、すぐに視界から消えた。
「そうだな」
 私を目を閉じる。冷めた珈琲の何とも言えない味がじわりと胸にしみた。


 部屋の入り口に放り出していたカバンと携帯だけを持って家を出る。あたし以外誰も居ない、寂れた二階建てアパートの一室。錆付いた外階段を降りて見上げれば、壁にはりついた蔦が時代を感じさせた。いかにも古そうで、実際古い。壁も薄いからたまに隣の部屋の話し声が聞こえてきたりもする。でも家賃は安くて、住人も大家さんも親切だから結構気に入っている。あたしは、ここが好き。
「いってらっしゃい夕里ちゃん」
 二階の窓から顔を覗かせた角部屋のお姉さんが、キャミソールのまま手を振った。風邪引きますよと苦く笑って、あたしは大きく手を振り返す。
「いってきます!」
 朝の静けさに包まれた街を急ぐことなく歩いた。通い慣れた通学路。毎日のように目にする街並みが、ゆっくりと流れていく。
(――ぁ、)
 何気なく見上げた空と夢の中の空とが重なった。青い薔薇の花弁が無数にひらひらと、あたしの幻想に落ちてくる。伸ばした手はやはり空を掻いた。泡沫と、呟いて固く拳を握る。現実逃避の仕方は忘れてしまったはずだ。
 あたしはもう現実から目を背けたりはしない。楽な方へ楽な方へと思考を持っていくことがさらなる苦行を引き寄せるなら、あたしはいつだって最悪の未来を選択する。不幸の底には裏切りも、絶望もないことを知っているから。
 緩く頭を振ることで振り払った花弁は、打ち捨てられ朽ち果てることなく消えてなくなる。脆い幻想から目を背けあたしはアスファルトの地面を見据えた。泣いても笑っても、あたしはここで生きていくしかない。だって、ここで生まれたんだから。
 ユーリと、あたしではない誰かを呼ぶ声がリフレインした。

「――混血の匂いがするな」

 暗転。


 はらりと花弁が舞った。
「……」
 ジキルの淹れた珈琲はまだ半分ほどカップに残されたまま、テーブルの上に随分前から放置されている。その少し向こうに置かれた硝子のコップ。入れられた薔薇の花弁が一枚、はらりと舞った。
 普通の花ならそういうこともあるだろう。けれどこの屋敷で、その花が散るはずのないことを私は知っている。

 あれは二度と散らされることのない、約束された花だ。

「ジキル…?」
 まどろんでいた意識が急速に正常な働きを取り戻す。心臓が鼓動を増して、らしくないと分かっていても、部屋を飛び出さずにはいられなかった。無駄に広い廊下を駆けながら、伸ばした手は何もない空間から黒衣を引きずり出す。フードのついた、足元までを隙間なく覆うローブ。夜に溶け込むその色は、月のない世界では酷く浮いて見えた。
(クソッ)
 廊下の途中をエントランスではなくバルコニーへと曲がって、そのまま外へ。室内では抑えていた力を解放すれば周囲の景色が輪郭を濁した。人間の目では決して捉えられない速さで昼の世界を駆け抜ける。付きまとう違和感と倦怠感には目を瞑った。元々、日の光に弱い血筋ではない。
(どこに行った…)
 出かけると告げて出かけるようになっただけ進歩。けれど行き先くらい告げて行けばいいものをと思わずにはいれなかった。昔から、ジキルの気配だけは探すのに苦労する。無駄に薄くて頼りなく、今にも消えてしまいそうな存在感。
 それでも、見失うことはない。
(――いた!)
 私たちもまた〝約束〟されているのだから。


 薄い被膜の破れるような音がして、はっと立ち止まる。
「今…」
 朝の少し冷たい空気に手を伸ばしても明確な答は得られなかったが、頭の中ではガンガンと警鐘が鳴り響いていた。
「……」
 なんとも言い難い感情が胸を満たす。歓喜しているとも、恐怖しているともつかないそれは酷く壊れやすいように思えて、一瞬扱いに困った。
 それでもと、頭の中で冷静な自分が行動を促す。
「ごめんね」
 胸に挿した薔薇から花弁を一枚貰い、そっと唇につけ必要な言葉を紡ぐ。この世界で最も魔術に適した言葉は、はっきりと発音されることなく花弁に溶けた。
 熱を持った花弁が独りでに動き出す。風に流され頼りなく揺れながら、進むべき方向を示し、後を追うように更なる呪文を唱えると、風を切るように飛んだ。
 追って駆け出すと、すぐに人気のない方へ向かっているのだと気付く。鳴り止まない警鐘が音を増し、花弁が速度を上げた。
 風を切って走る感覚が、今は遠い過去の記憶と交差する。高層ビルに囲まれた今が昔よりも少しだけ息苦しく感じるのは、きっと――
「――こんな昼間から、お食事ィ?」
 意図して上げた〝普段通り〟の言葉は不自然ではなかったろうか。
「…来たな」
 見知らぬ吸血鬼が一人。腕の中にはこれまた見知らぬ少女。
(誘われた…?)
 息苦しさが遠のいたのは刹那。
「現存する最古の始祖鬼、灰被りジキル。領域を荒らせばあるいはと思ったが、こうも簡単にかかるとは」
 男の言葉にまんまと嵌められたのだと理解する。同時に、胸元の薔薇が散った。
「ッ!」
 無数の花弁が一つ一つ凶器となって男へと襲い掛かる。
「なら分かってると思うケド、」
 瞬くよりも短い間に意識のない少女を男の腕から攫い上げ、足場のない空に降り立った。
 よく知る人影が、入れ代わるように下へ。
「小生の街には凶暴なハンターがいるんダ」
 振り下ろされた大鎌は鈍い音と元にアスファルトの地面へと突き刺さる。男はチッと鋭く舌打ちして自分の影に沈んだ。ヒンタテューラへの逃走。
「追わなくていいよ、レンフィーちゃん」
「誰が追うか」
 引き抜いた大鎌を器用にクルクルと回していたレンフィールドが、どこか不機嫌そうにこちらを仰いだ。
「私はあそこが嫌いだ」


『二人で歩こう』
 長く伸びた灰色の髪から覗かせた同じ色の瞳に、溢れんばかりの幸福を湛えて、無邪気な男が笑った。欠片ほどの彩りも無いその男が、あたしの目には何よりも眩しく映る。
『―――』
 あたしではない誰かが彼を呼ぶ声は、音もなく弾けた。
『きっと見つけるから』
 どんなに願ったって、あたしは夢の中の愛されたユーリにはなれない。


「帰ろうレンフィーちゃん」
 少し乱暴に扱えば壊れてしまう。酷く脆弱な人間の子供を宝物のように腕に抱いて、ジキルは私を促した。
 連れて帰る気かと、当然の問いかけを呑み込む。
「…あぁ」
 ジキルによって散らされた薔薇はジキルによって再び花の形を成し、少女の胸に納まっていた。それが答。
(約束された魂、か…)
 アスファルトの地面を蹴って跳躍。何もない空間を足場にジキルと同じ目線に立って、塞がった彼の手に触れた。
「いいぞ」
 この世界で最も魔術に適した言葉がジキルによって紡がれて、私とジキル、ジキルに抱かれた少女の周囲で世界が歪む。
 気付いた時には見慣れた屋敷のバルコニーに立っていた。嗚呼流石だと、声には出さないが心の中で感嘆の息を吐く。目を閉じていたら、きっと世界の歪みを渡ったことなんて気付かなかっただろう。
「…怒ってる?」
「何について」
「全部だよ」
「さぁな」
 部屋を飛び出す時、つい持ってきてしまった薔薇を眠り姫の胸に挿して、二人に背を向けた。それが明確な答であることに、ジキルは気付いただろうか。
「手が必要なら、呼べ」
 気付かなければそれでいい。でもきっと気付いているだろうから、私はそれ以上何も言わず、振り返りもせず、与えられた自室へと帰った。


「あら、お早いお帰りね」
 態とらしく驚いたような素振を見せれば、それを見て不機嫌そうに眉根を寄せる。
「種は蒔いた」
「それで?」
 全く、分かり易いったらない。
「芽が出れば私の勝ちだ」
 長い石畳の廊下を立ち止まることなく歩いていくコールの姿を見送って、ふと、戯れに自分自身の左手首に口付けてみた。
「貴方はあの人に勝てないわ」
 左腕にはワインレッドの薔薇を模ったタトゥーが刻まれている。手首の蕾から伸びた蔓を辿って、甲の咲き誇る大輪の薔薇へと唇を移すと、胸の奥が鈍く疼いた。
「だって、」
 そのタトゥーは忌まわしい呪いであり大切な約束だった。最後に交わした言葉は再会を誓うものではなかったのだから、与えられることのない愛を求め足掻いている方が私には似合いだろう。
「芽は出ないもの」
 彼[カ]の始祖鬼にとってコールなど、自ら手を下す価値もない存在であることは、火を見るよりも明らかだ。
「バカねぇ」
 そのことに気付かないのは当の本人一人きり。
「灰被りなんて、一番手強い相手じゃない」
 ――ユーリ、ユーリ、ボクをおいていかないで
「無邪気に見えたって力だけは本物なんだから」
 ――泣かないで、ジキル。大丈夫、貴方は独りじゃない
「舐めてかかると瞬殺よ?」


 ――また会えるから


 誰かに呼ばれているような気がして目が醒めた。柔らかくて、温かくて、優しいのに今にも泣き出してしまいそうな声が、ユーリ、ユーリと、縋るように繰り返す。
 その声があまりにも悲痛で、懐かしかったから、あたしは答えてしまった。
「『ジキル』」
 夢の中の、あたしではない誰かの唇をなぞった言葉が焦点を結ぶ。ジキルと、あたしはあたしの知らない誰かの名を紡いだ。
「ユー、リ…?」
 そして呼ばれる。
「――ぇ?」
 夢が音を立てて現実へと近づいたような気がした。ぼんやりとしていた視界が一気に鮮明さを取り戻し、見慣れない天井が飛び込んでくる。広い部屋だ。天井が、遠い。知らない場所。
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