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 それは突然と言えばそうだった。でもなんとなく予感はしていた。
 死にそうなほど退屈でつまらない日常が跡形もなく崩れ落ちて再生不能になる。――そんな、とてつもなく物騒で心躍る予感。

「みぃーつけた」

 かくれんぼで鬼になった子供が隠れていた最後の一人を見つけた時のように、その声は純粋な喜びと達成感に満ちていた。聞いているこっちが思わずつられて笑ってしまいそうになるほど楽しげで、「あーあ見つかっちゃった」と、悪くない敗北感をもたらす声。
 「もっと聞きたい」と、他意もなく思った。

「…見つかっちゃった」
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 ぞわぞわと何か得体の知れない物が背中を這い上がって来るような気がして、目が覚めた。最悪の目覚め方だ。
 前髪が汗でべっとりと額に張り付いて離れない。簡素な作りのワンピースも似たようなものだった。全身がこれでもかというほど汗で濡れている。

「きもちわるい…」

 ずるりと、ベタつく体を引きずるようにベッドを下りてひとまず部屋を出た。いっそ雨でも降っていればよかったのに。
 水。水。水。――そればかり考えていたら、足は正直に浴室へ向いた。服を脱ぐのも億劫で後先考えず頭から冷水を浴びる。肌を刺すほどの勢いで降り注ぐ水は、少しでも涼をと座り込んだ私の体から不快感も、熱も、汗も、全部纏めて奪ってくれた。

「正気?」
「…この上なく正気よ」

 後をついてきていたらしい黒猫は、脱衣所から信じられない物でも見るように私を見上げる。言葉よりも遥かに饒舌な目を見たくなくて瞼を下ろしたら、水音がまるでベールのように私を包んだ。

「とてもそうは見えないけどね」
「うるさい」

 頭の天辺から爪先まで、ほど良く冷えた頃合いを見計らったようにリドルがシャワーを止める。薄らと目を開けて見上げたら、咎めるというより呆れの強い視線を返された。風邪でも引いたらどうする気なんだと、やはり彼の目は言葉より多くの事を私に語る。

 薄暗い部屋には、蝋燭の明かりが一つだけ灯されていた。小さな炎はゆらゆらと忙しなく揺れて、天井に映る影を生き物のように蠢かせている。
 その影を眺めているうちに、寝起きでぼんやりとしていた頭は徐々に働き始める。まずは起きなくてはと、起こした身体の上を薄手のブランケットが滑り落ちた。

「リドル――」

 ベッドサイドに置かれたスツールは無人。その代わり、枕元で黒い猫が丸まって目を閉じている。

「リドル」

 意識して呼ぶと、黒猫は静かに目を開けて私を見上げた。真紅の瞳には少しだけ不機嫌そうな色が滲んでいる。

「お腹すいた」
「丸一日寝てたからじゃない?」
「何か作ってよ」
「……仕方ないなぁ…」

 起こされたのが不満なのか、黒猫は少し渋るように目を細めてから、本当に仕方なさそうに体を起こした。
 ぐぅっ、と目一杯伸びをして、欠伸を一つ。

「朝まで寝てれば良かったのに」

 ぼやいた黒猫は音もなくベッドを飛び下りて、独りでに開いた扉から部屋を出て行った。扉はまた独りでに閉じて、蝋燭の火が大きく揺れる。

「ひどい」

 

 長いローブが翻り、広がる闇を蹴散らすような閃光が放たれる。光は矢のように素早く空を駆けた。
 新月の夜。光源のなかった世界が白く燃え上がる。

「風よ、その吐息をもってたゆたう水を回せ。炎は熾り、大地を清めよ。源無き光の下、世界は閉じる。闇夜が戻り全ての歪みが正されるまで、けして開くことはない」

 朗々と紡がれる言葉は強い魔力を帯びていた。放たれる音と音の連なりが大気を震わせ、世界に満ちた古[イニシエ]からの理[コトワリ]を少しずつ変質させていく。
 変化の中心に立ち、歌うように世界を従えているのはたった一人の少女だ。

「回れ、回れ、水よ。閉ざされた世界の中を回れ。風に導かれ速度を上げ渦を巻け」

 水と風の描く円は少女を中心に広がって、やがて《閉ざされた世界の果て》を示す。炎はその内側を万遍無く舐め上げた。清められた大地は、磨き上げられた床のように零された魔力を転がす。

「私達が生まれた瞬間生じた歪みは一日ごとに広がって、一年ごとに形を変えた」

 世界に混ざることなくその場にとどまる魔力は、密度を増しやがて閉ざされた世界の中で凝り固まった。
 ごろごろと地面に転がる魔力の《石》が増える度、少女が体中に巻きつけた長い鎖が一欠片ずつ砕けて落ちる。

「歪みはやがて世界を呑み込む」

 そして最後の鎖が砕けた時、少女の体に巣食う最後の《歪み》が顕現する。


 あの子はおかしな子。いつも一人でいる。
 あの子はおかしな子。いつも屋根に上って空を見てる。
 あの子はおかしな子。だから誰もあの子と遊ばない。
 あの子はおかしな子。だから誰もあの子の名前を知らない。
 あの子はおかしな子。だからいなくなっても心配する人なんていない。
 あの子はおかしな子。



 ――あの子って、どの子?



(__という名の子供/歪な夢)

 闇を掻き集めたように真暗い泉の中で、その子はいつも泣いている。
 真黒くて中の見えない泉の水に腰まで沈めて、顔を覆って泣いている。

「どうして泣いているの」

 世界が憎い人間が怖い自分が嫌い。――たった一つの質問に、返る答えはいつも違った。

 師匠に《お使い》を頼まれた。なんだか危ないお使いらしい。

「死にそうになったらちゃんと悲鳴上げるのよ」
「王宮までの届け物で死にそうになる理由が分かりません師匠」
「魔法師を見たら敵と思うのよ」
「四面楚歌ですか師匠」
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