「記憶を取り戻したの」
それは本来、喜ばしいはずだ。けれど生贄の姫の表情は晴れない。
「…そうか」
その理由を、巨人の王は知っていた。生贄の姫が失くした記憶の全てを、既に手に入れていたからだ。
黒猫は器用に表情を歪めた。真紅の瞳をそうっと細めて、少しだけ眉間に皺を寄せ、ソファーでくつろぐ私を見据える。
「怖い顔しないでよ」
誰に何と言われようが、私からアロウに真実を伝える気はなかった。そうすることが必要だとは、どうしても思えないから。
「何故、私を呼ばなかった」
どこからともなく現れたリーヴの、それが第一声。何について言っているのかはすぐに分かった。けれど何故、そんな事を言うのかは分からない。
「ビューレイストが一緒にいたから」
《護衛》が側にいたのに、何故わざわざリーヴを呼ぶ必要があるのだろう。
本当なら、ビューレイストの手を借りる必要すらないような相手だったのに。
「あれにお前の《中》は守れない」
「…貴方なら守れるって言うの?」
「少なくとも、抑え込むことは出来た」
「血の臭いがするな」
どこからともなく現れて、リーヴは私の髪を一房すくった。
その理由も原因も――そしておそらく結果でさえ――知っている癖に何を今更と、胸中で毒づいて私は笑う。
「珍しい事じゃないでしょ」
「人間の血の臭いをさせて帰ったのは、初めてだ」
「人でも巨人族でも、同じ血よ」
「…違うな」
嗚呼やはり、彼は分かっている。分かっていてこんな事をしているのだ。
「少なくともお前にとっては、違った」
磨き上げられた宝石を思わせる真紅の瞳を直視出来なくなって、私は視線をあらぬ方へと流す。
「隠せると思ったのか」
逃げられないと、悟るには遅すぎた。そもそも私が帰るのを待ち伏せていた時点で、彼に逃がす気などさらさらなかったのだ。
「…貴方が気付いた事の方が不思議よ」
それが彼の言葉に対する肯定になるのだと分かっていても、言わずにはいれない。
「私の記憶が戻ったと、何故分かったの? リーヴ」
「…言ったはずだ」
私だけが知ることの出来る、私しか知りえないはずの変化。私以外の誰が、どうして知ることが出来るというのだろう。
「隠せると、思ったのか」
ゆるり、視線を上げると彼の瞳はその色を深めていた。まるで冷たい宝石に血が通ったような色合いの変わりように、私は知られてしまった忌々しさを忘れて純粋な驚きに突き動かされる。
「リーヴ、貴方…怒ってるの?」
まさかと、細くなる言葉にリーヴは言った。まるで、それがさも当たり前の事であるかのように。
「隠されて良い気はしないさ」
「そう…」
目元に触れようと伸ばした手を拒む素振りさえ見せず、僅かに目を細める事で受け入れて、したいようにさせて、彼はそれきり口を閉ざした。
伝えるべき事は伝えたのだと、纏う空気が告げている。
「貴方は変わるのね、リーヴ」
彼は変わった。その理由を私は知らない。知りたくない。本音を言えば変わって欲しくもないし、変わらないでいてほしい。
「私をおいて行くの?」
だって私は変われない。変わる事が出来ない。変わる事を誰も望んでくれなかったから、今更変わる事なんて出来るはずがない。
「私を――」
触れるなと、告げる声は自分でも驚くほど感情的な冷やかさを宿していた。
「これは私に捧げられた贄だ」
いつからかは、思い出せない。気付いた時にはもう後戻りの出来ない所まで来ていた。
「貴様らに返す道理はない」
手に入れた温もりを奪われないように、壊されないように、強く強く抱きしめて閉じ込める。
その存在が必要なのだと、私の理性ではない何かが告げた。だからその囁きに従って私は行動する。けして侵されることのないように。
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